ナナフシ

phasmids

 台風の夜の明けた朝のことである。
 就寝していた私の腕に昆虫がしがみついている。その触感や形態と色彩から「カマキリの幼虫かな」と思い、もう片方の腕でやんわりと掴みあげてみると、ナナフシの幼虫である。

 屋外からナナフシの紛れ込んだ理由は定かではないが、私は小学生の頃にも屋内でナナフシを観察する経験をしている。そのときは成虫のナナフシで、緑色で大きく、自分で購入した図鑑で昆虫の名前を調べる経験ができて、とても嬉しかったことを覚えている。
 現在では私も成人し、ナナフシの食草がエノキやサクラなどであることも知っている。老母にサクラの木がないかを問うてみると、近隣の地蔵堂の地所に生えているという。歩いてさほどでもない距離ではあるが直ぐに外出することもできず、脱脂綿に水を含ませたものを与えて外出する機会を窺っていたが、もともと弱っていたこともあり、正午に確認したときには絶命していた。
 私には昆虫を標本にするという趣味はなく、蛋白質として他の生命の一部になることもまた生命の連続として意味のあることだと考えているので、裏庭に遺骸を置くことにした。

 昨年の父の葬儀後、その納骨の際に、私は墓の中に既に納めてあった骨壷を割った。
 それは亡くなった父の先妻のものである。骨壷をふたつ収めるには墓の中が狭かった。最初は父の先妻の骨壷を割らずに取り出そうとしたのだが、墓の口が狭くて取り出すことができなかった。
 神主から「割っても良いよ」と助言をもらい、その場にあった大きな石で骨壷を割り、中に入っていた生々しい白骨を土の上に置いた。そして、新たに父の遺骨を白い布でくるんで、これも土の上に置いた。
 父の先妻の亡くなったのは私の生まれる以前だから、その遺骨は骨壷の中で長い間その形状を保っていたことになる。現在の日本の法律では土葬も違法ではないが、火葬が多く、骨壷に入れられることが多いと思う。そのようにすると骨は他の生命の一部になることもなく、残るものなのだ。
 遺体や遺骨をどうするかは遺族の考えによるものであり、私の思想を押し付けるものでもないが、土に還すという意味では、私は父とその先妻を自然なかたちに解放したような気分になった。

 盆には迎え火を焚き、送り火を焚いた。台風による強風で燐寸による着火は難しく、何回も失敗を重ねた挙句に、辛抱強くすべての木材が炭になるまで燃やした。それには長い時間を費やした。
 そして台風の夜を迎え、その夜が明けたとき、私の腕にはナナフシがいた。ナナフシは台風の強風にとばされた挙句、私の着衣にしがみついて、屋内に入ったのかも知れない。

追記 作品の題名としてのわかりやすさを優先して「ナナフシ」としたが、種としてはタイワントビナナフシ Sipyloidea sipylus ではないかと考えている。

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