スズムシ 其之三

Suzumushi

 今年のスズムシも成虫になった。幼虫も可愛いものだが、やはり成虫は格好が良い。美しい虫である。
 成虫の姿を見かけたのは、先週末のことだ。そのときから数日がたち、すでに数匹が鳴き始めている。そのうち騒がしくなるだろう。昨年度は、自家繁殖の初年度ということもあり、大事をとりすぎた。成虫で 600 匹超を飼育して、鳴き声は、ときに轟音となった。それも悪くはないのだが、やはり繁殖のための成虫を最大限確保するという目的が強すぎた。さいわい、卵は充分に確保できた。卵の保管にも問題はなかった。
 今年は 5月4日から孵化が始まった。統計を見ると 6月22日までに累計で 5000 匹超が孵化している。むろん、すべてが成虫になるものでもなく、また、幼虫の段階から形質の優れたものを選別しているので、最終的には、何匹を成虫として飼育することになるのかは、わからない。それほど飼育に時間を割けないので、成虫の統計をとることは、今年はやめることにした。統計をとる時間を、選別に充てている。じっくりと、一匹ずつを選んでいる。
 選別の基準は、虫の美しさである。触角が充分に長く、左右均等に生え揃っているもの。六本の脚が綺麗なかたちで残り、尾毛にも欠損がないもの。全体として美しい印象を与えてくれるものを、繁殖を前提とした成虫用のケージに移している。いま、私の手元にいるスズムシは、いつか誰かに手渡すこととなるものであろうから、その繁殖を託すこととなったときのために、美しい系統を残そうと考えているのだ。飼育する虫の全体数が充分に確保できて、そのような選別のできる余裕ができた、ということである。母集団に充分な数がなければ、このような選抜はできない。
 いま、ここにいるスズムシは、すべて家畜である。実際に飼育してみて、あらためて、その思いを強くする。私は、他の野生のコオロギ類を捕獲して、飼育することもあるが、これほどに人間に懐く虫はいない。掃除や給餌のために、飼育ケースの中に手を入れても、おそれることなく、まとわりついてくる。手乗りの動物としては、文鳥やインコが有名であるが、手乗りをするスズムシも悪くない。彼らの脚はやわらかいので、人間の肌に這わせても、痛みを感じるようなことはない。飼育ケースを跳ねでたものも、遠くに逃げることがない。私が手をのばせば、そこに戻るのである。
 総じて、おとなしく、従順で、私のすることを静かに待っている。毎年の世代交代を繰り返す中で、人間に慣れ、人間に好かれ、人間とともに生きる性質のものが、選抜されてきたのであろう。植物に園芸品種があるように、動物にも飼育されるべく遺されてきた品種があるのだという気がする。私は、伯母からスズムシの飼育を受け継いだわけだが、その伯母の手元に来る前にも、きっと何世代もの同じような人間との歴史があったに違いない。
 選抜から外れた虫は、裏庭に放している。この周辺にいるようなスズムシは、もとより人間に飼育されていたものであるから、飼育途中のものを放すことに、遺伝子汚染などの心配はいらないという説を聞いたからである。もっとも、私の家の近辺には野鳥が多いので、彼らの蛋白源になっている可能性が高い。
 動物を飼育するということは、その死を身近に感じるということでもある。そして、その死は新たな生につながっている。

日本語を学ぶ 其之九

ensyu nada

 社会人になると、有権者としての責任を果たす必要がある。
 ウェブで情報を集めたり、テレビでニュースを観たり、新聞を読んだりするのは、そのためだ。自分が事実を知るためだけでなく、テレビや新聞などのメディアにおいて、それがどのように報道されているか、を知る必要もある。有権者の全体集合を構成するのは、自分と、自分の属する同時代のひとたちである。同時代のひとたちとは対話の可能性がある。対話の可能性があるとするなら、その前提として、事実の認識を共有しておく必要がある。
 メディアでは、現代の科学技術や政治経済についての諸事実が言語化されている。特に日本についていうなら「日本語化」されている。高等教育の目的のひとつは、これら諸分野に関する日本語による情報を、受信する能力を育てることにある、と考えている。メディアによる情報を受信して、有権者としての責任を果たす、社会人としての生活に入るまでに、私たちは既に高校や大学で、政治的な問題を理解できる程度の教養は準備しているはずである。
 政治的な意見表明や議論、判断、投票などをする前に、これらの教養について確認するべきである。どの専門家も絶対的な権威を持つわけではない。政治的な問題は、総合的なものであり、自然科学的にも人文・社会科学的にも、幅広く共有された学識をもとにして、論じられるべきものである。それらの学識を共有できていないと感じるのであれば、勉強すれば良い。すべての勉強をすませていると思うのは、ありがちな幻想ではなかろうか。
 もはや、党派的な対立構造を原理として、政治的な問題を解決する時代ではないと、私は考えている。現代の、日本の政治をめぐる状況として、無党派層の多いことは、その実証的な事象であると思う。あらかじめ党派的な束縛をのがれることによって、真実に近づこうとしているひとたちが、いわゆる無党派と呼ばれるひとたちのように思う。
 同時代の論敵を相手に政治的な闘争をしているだけでは、将来の世代の経済的利益は擁護されない。環境の問題にしても、財政の問題にしても、将来の世代の負担を考えて意見を述べあうのでなければ、言論の自由を享受する意味がない。自分や、自分の属する集団、同時代における政治的な論敵をも含むであろう自分たちの世代のみの経済的利益を主張することが、政治的な対話をする目的ではないように感じる。
 現実の生活においては、私たちは自己の安全を確保し、経済的利益をもとめざるを得ない。ミクロの場面では、法的な闘争をすることも考えられる。しかし、その現実に居直って、自己の利益追求のためにのみ、言論の自由を利用しているのであるなら、そこに創造的な価値は生まれない。他者のことを考えずに発せられた意見は、説得力を持たず、魅力に乏しい。将来の世代に対する配慮のない意見、国際的な感覚を欠いた意見、他者に対する気遣いのない意見では、賛意を得ることに自ずから限界を生ずるのではなかろうか。
 多様な個人は、必然的に異なる視点を持つから、それらを網羅的に披露しあって、最適な解を探し出すことが、言論の自由や民主的な選挙の目的だと考えている。総合的な教養を身につけておくことは、政治的な問題を理解するための前提となるが、自分とは異なる他者の意見を受けとめる人間性もまた、政治的な対話をする際に準備しておくべきものだ、という気がする。