日本語を学ぶ 其之一

via Wikipedia

 秋は学問の季節である。日本語の勉強を進めてゆくと、自然と古代中国についての知識が必要になってくる。
 そもそも、どんな学問をするのにも日本語は必要だ。私は、日本語で基礎的な教育を受けているので、やはり日本語の書物で、いろいろと勉強することになる。
 場合によっては、英語やフランス語の文章を読むときもあるが、基本は日本語である。これは、必ずしも自分で翻訳するという意味ではない。むしろ英文や仏文を読んでいるときは、翻訳などしていないものだ。英語やフランス語で書かれた書物で、日本語に翻訳されたものを、読むことも多い。原書は入手しづらいからだ。
 いずれにせよ、英語やフランス語は、高校や大学からの付き合いであり、日本で老親と生活する身にとっては、趣味のようなものかも知れないと思っていた。しかし、最近はウェブの広がりによって、英語やフランス語で読むものが、生活にもかかわるような気がしている。
 パソコンやウェブ関連の用語は、すべて英語である。私は、数学や物理などの知識とともに、英語の読解力がパソコンやウェブを扱う能力の基礎として重要ではないか、と考えている。また、メディアなども、日本語のものに接しているだけでは、早期に客観的な判断などできないような気がする。日本でいう「全国」のニュースなどは、所詮、日本のローカル・ニュースであり、現実としてグローバルな世界全体の関係性に起因している文化や政治経済の事象については、やはり英語やフランス語のメディアまで視野に入れないことには、本当のことなどわからないような気がしている。
 私は、現代の中国語は解らない。しかし、最近、獄中の中国人がノーベル平和賞を受賞するというようなこともあり、中国語の記事も、なんとなく眺めるようになった。繁体字による記事を眺めるとき、これは訓読が利かないものか、と切に思う。高校時代の漢文を、もう一度、おさらいしたくなる。
 俳句や短歌を学び、日本の古文を学んでゆく彼方に、漢詩や漢文という、古代中国の姿があった。漢文を眺めていると、大学一年生のときに、フランス語を学び始めたときのことを思い出す。田舎者の自分には、発音やアクセントなどは縁遠く、もっぱら辞書を引いて語彙を増やし、文法書に忠実に和訳してゆくしかなかった。そんなやり方を、私は「漢文方式」と自嘲していた。平声も仄声も解らない。貧者の勉強は「書かれたもの」を学ぶことだ。
 天平の時代から、日本は中国に学んできた。その痕跡が、他ならぬ日本語にしっかりと刻まれている。

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