スズムシ 其之十五

suzumushi

 今年のスズムシも成虫になった。
 梅雨が長く続き、オホーツク海高気圧のもたらす寒気が気温を下げ、くわえて湿度も高いので、幼虫の成長や脱皮に多少のネガティヴな影響は見られるものの、昆虫の生命力は逞しく、一途に成虫へとその身体を大きくしてゆく。

 スズムシの卵を冬季は乾燥させておいて、春季になると水を加えてもどすのであるが、このときに厄介なのがカビの増殖である。
 そもそも夏季の産卵時にカビの胞子が産卵場のマットに混入することは避け難く、産卵されたうちのいくつかはすでに秋季からカビに蝕まれている。それを自然に乾燥させることで水分を断ち、カビの増殖を抑えているのである。カビを抑えるには水分を断つことが最も効果的なのだ。
 スズムシの卵を孵化させるには水分が必要なのだが、卵が水分を吸収しても、温度が上昇しないことには孵化は始まらない。温度の上昇というのは、冬至から始まる日照時間の長期化により、熱が地球に保存されることで実現される。まずは地中が温められ、その地温が地上にある気温を上昇させるのである。気温 20 度がスズムシの孵化の目安であるのだが、それを見越して水分を加える。
 時期としては三月末と文献には書かれていたが、私の経験では年によって適切な時期は異なる。今年は低温が予想されていたので、水分を加え始めたのは四月中旬であったが、それでもしばらくは温度の低い日々が続きカビの増殖に悩まされた。
 はじめの頃は実体顕微鏡とピンセットでカビを取り除いていたのであるが、際限なく時間がかかり、なおカビの増殖は衰えず、次第に精神的な負荷さえ感じるようになってきた。したがって、ルーペで観察してカビのコロニーだけを除去する簡易な方法に変更した。非効率な作業についてはその改善を考えない限り、事業の持続可能性が失われてしまう。精神的な辛さを感じるようではいけない。
 そのうち無事に孵化が開始した。最初の孵化は例年どおり五月上旬である。

 個体群密度は良好な成育のための要因のひとつである。あまり密度が高すぎると昆虫どうしが衝突し、触覚や脚を失う原因になる。適度に分散させなければ綺麗な成虫には仕上がらない。
 最初は数ミリしかない幼虫たちも、身体が大きくなれば、その飼育舎は相対的に狭くなる。私は各サイズのプラスチック・ケースを用意しており、幼虫の身体が大きくなるに連れて、幼虫舎を増設し拡大してゆくという方法をとっている。ケースの中には経木で衝立をし、そこを幼虫たちの居場所にしている。
 現在はネットの成虫舎とケースの幼虫舎とで、最大容積の空間を管理しているが、卵や孵化の時期よりも作業はしやすい。人間のサイズと生物のサイズの相対関係が、飼育や栽培における作業効率の要因として考えられると思う。家畜や家禽、野菜や果樹などの大きさは人間のサイズに適合している。

 スズムシの飼育は成果が目に見えるのが楽しい。受験勉強など、なかなか成果の実現できないことを長期に渡って続けなければならない方には、このような趣味を持つことをおすすめしたい。
 短期的に成果が実感できることで精神的な安定が得られる。それは本分である受験勉強の進展にも寄与することと思う。なんらかの楽しみがなければ人生は続いてゆかない。

山脈を穿つ

stonecrop

 赤石山脈については地学的な興味があり、国土交通省や鉄道事業者による南アルプストンネル工事に関しても、その工事前のハイレベルで専門的な調査によって、最新かつ詳細な学術的知識が公開されるものと期待していた。そのような理由からリニア中央新幹線に関するテレビの報道番組などを視聴しているのであるが、ものたりなさを感じることが多い。もっと地形や地質、断層や破砕帯などの話題を報道していただけないだろうか。

 リニア中央新幹線の南アルプストンネル工事は不可避であろうと私は考えている。たかだか 370 万人しかいない静岡県民が結束したところで、名古屋市民だけで 230 万人を擁する愛知県や、三重県、岐阜県、長野県などに、多数決で勝利することは不可能である。日本全国の鉄道愛好家たちも、この計画を支持することであろう。

 リニア中央新幹線に関しては理工学的な意義も感じており、その計画に対して全面的に反対するものではない。しかし、水資源や生態系の保全など、とりかえしのつかない事態が予想されているのに、事前の調査も充分でないまま、ただ締め切りに追われるままに、難度の高い工事に着工することは、思慮の浅いことではないかと考えている。
 静岡県で学術的な調査をする。愛知県、長野県、山梨県など関係各県と合同で調査をするなど、国土交通省や鉄道事業者に頼らずとも、自分たちで独自の調査をすることはできないものだろうか。国土交通省や鉄道事業者に調査を要請したところで、彼らは自分たちに有利な情報しか開示しないかも知れない。各々の立場で調査して、その結果を持ち寄って議論することが最良の方法のように思われる。

 地方公共団体が主体となる学術的調査を私は提案したい。その際には、国立研究開発法人産業技術総合研究所など、公的な研究機関に関与を要請することも考慮すべきであろう。国土交通省や鉄道事業者には、開業時期に拘泥することなく、慎重に事業を進めることをお願いしたい。

愚行と愚考

Catsear

 私たちは、先人たちの残してくれた「正の」遺産による恩恵を受けているが、同時に「負の」遺産による損害を被ってもいる。あるいは損害を被るおそれに脅かされている。

 明治維新以降の近代化や戦後の高度経済成長により、国富は増大したが、その代替として豊かな自然を失った。絶滅したニホンオオカミやニホンカワウソが復活するようなことはない。
 現代でも、多くの生物や生態系が絶滅の危機に瀕しているが、それはすなわち工業化と都市化の進展の果てであり、もはやその風景こそが若い世代のあらかじめの風景として措定されており、私たちの郷土がいかに美しいものであったかが忘れさられようとしている。
 ただ漁業権を承継したというだけで、希少な生物資源であるサクラエビの漁労をやめない漁師たち。山脈から流れくるミネラルを含んだ豊かな水が、海洋に於ける豊かな生物資源のおおもとであることを知らない、地学的要因や生態系などを考慮しない、ただ獲るだけの経済活動は、愚行であるとしか言いようがない。とりかえしのつかない事態にならないことを願うばかりである。

 社会の中には「正の」遺産により恩恵を受ける人々と「負の」遺産によって損害を被る(あるいは損害を被るおそれのある)人々が混在している。その要因はおそらく相続や事業承継によるものが最も大きいが、都市と地方の格差、官公庁や大企業などで働く人々と中小零細企業で働く人々との格差などもあるだろう。
 現在、日本の財政は膨大な債務をかかえている。大量の国債を保有する日本銀行もまたリスクを抱えるが、それでも「経済成長のため」の財政出動や金融緩和が止まる気配はない。これらは世代間の格差として顕在化することも考えられる。
 本人の意思や能力ではなく、生まれた場所や家庭、時代によって社会的な地位が決定される。社会は安定するかもしれないが、恵まれない環境に生まれた者たちは、生きるための努力を強いられ、勉強と仕事のみの人生を静かに終えてゆく。社会保障の恩恵を受けることができるのは、主として官公庁や大企業などで働く人々であり、中小零細企業で働く人々は、会社の倒産による失業や低賃金による資産形成の不全に直面する。
 それでも恵まれない者は恵まれない者なりに考えて生きてゆく。相続や事業承継により恵まれた社会的地位にいる人々の愚行の後始末を引き受けるのは、それらのことについて問題意識を持ち、解決策を考えようとする人々である。そのようにして私たちの社会は命脈を保っている。

 これらは私の愚考にすぎない。しかし、仮に愚考に誤りがあったとしても、とりかえしのつかない事態に陥ることはない。ご寛恕いただければ幸いである。

教育、そしてメディア

Carolina geranium

“…by giving them good education and reliable information and trusting citizens to do right thing on the initiative…”
 ― Yuval Noah Harari

 1994 年に保健所法が地域保健法に改正された。それまで保健所は感染症への対策を主眼としていたが、この改正により人員や設備の手当が薄くなった。現在、日本は公衆衛生に関する弱点を突かれたような状況にある。COVID 19 に関しては、台湾や韓国の実績に学ぶことが賢明であろう。
 などと知ったようなことを書かせていただいているが、これらはすべてメディアからの引用である。日々、多くのメディアにふれ、思考を巡らせているので、もはやどのメディアから得た情報かも確定できず、あるいは自分の憶測であるのかにも言及できない。
 冒頭のユヴァル・ノア・ハラリの言葉は ETV 特集からの引用である。保健所法に関しては、新聞からヒントを得てウェブでリサーチした。台湾や韓国の実績についてはテレビからの情報である。
 
 ユヴァル・ノア・ハラリの ETV 特集は評判が良かったようで、さらに 60分間のヴァージョンが放映された。本来なら彼の著作を読まなければならないところであるが、日常の些事にとらわれ書籍にまで到達できないことは痛恨の極みである。
 テレビや新聞に係る費用は、老母の受ける遺族給付から賄われており、私はそのおこぼれを頂戴しているにすぎない。NHK 受信料や静岡新聞の講読料は、老母の生活リズムを崩さないための支出であり、その必要がなくなればやめることも考えている。私は老齢給付をさほど受けられないので、そのような贅沢は許されないかも知れない。

 テレビや新聞に於ける、政治・経済・国際などのニュースや記事に関しては、私が解説役を務めさせていただいている。老母にはさしたる学歴もなく、私は大学まで卒業させていただいているので、これは当然の責務であろう。私は「勉強する機械」なのだ。老母の購入したメディアを、私が過去から受け継いでいる教育により換骨奪胎して老母にわかりやすく伝える。このようなことも家族のなすべき仕事と言えるのではないか。

 高等教育を授けていただいたことに私は感謝している。メディアに関しては、未来のことであり言及は難しいが、民主主義のためにも、貧困層にも届くメディアを期待したいところである。

追記 静岡新聞の月決め講読料は 2020 年 4 月に従来の 2980円から 3300円に改定された。

 
 

春愁 其之五

yellow flax

「2000 年には 20 %まで持ち直してるんだね」
「原子力発電が登場して自給率は持ち直したんだけど」
 今年度の高校講座では「地学基礎」を視聴していたが、その最終回で日本のエネルギー自給率を論じる際に、原子力発電を国産エネルギーとしていたことが気になった。原子力発電の燃料がウランであることは高校生でも知る事実だ。そして日本の原子力発電においては、その全量が輸入されたものであることもまた明白な歴史的事実である。

 2020 年 3 月 7 日からは、東日本大震災、福島第一原子力発電所事故、岩手県・宮城県・福島県での復興事業などに関するテレビ番組を録画予約して視聴した。

報道特集「脱原発を目指す台湾」TBS
NHKスペシャル「東日本大震災 40 m 巨大津波の謎に迫る」NHK 総合
ETV 特集「中間貯蔵施設に消えるふるさと 福島 原発の町で何が」NHK 教育
テレメンタリー 2020「高台はできたけど 復興事業の誤算」KHB 東日本放送
NHKスペシャル「復興ハイウェー 変貌する被災地」NHK 総合
NHKスペシャル「原発事故は防げなかったのか 見過ごされた分岐点」NHK 総合
時論公論「原発 不適合で初の停止 その意味は」NHK 総合

 津波に関する新しい知見や、原子力発電所事故の絶望的な結末、復興事業の現実的な諸問題、原子力発電に対する政府や企業の姿勢の変化など、多くの情報や知識を得ることができた。
 総じて思うことは、やはり日本政府もまた台湾のように、脱原発を政策目標として掲げるべきではないか、ということである。事故を起こした原子力発電所の廃炉作業は不可能であり、原発マネーを潤沢に得ていた立地自治体は、その土地の一部を永遠に失うことになる。復興事業も政府の意図どおりとはならない。現実に政府や企業の中にも脱原発を目指した動きが胎動しつつある。

 最近の原発推進派の論拠は「二酸化炭素の排出量を削減する」ことに置かれているようであるが、放射性廃棄物よりも二酸化炭素の方が、まだ適正な処理が可能ではないのかという気がしてならない。大気中に拡散してしまった二酸化炭素を回収することは困難かも知れないが、植物による光合成などから学び、二酸化炭素をスマートに処理する技術を研究する方が、まだ可能性があるように思う。
 それが高校講座で「地学基礎」を一年間視聴した私の結論である。

太陽

wild pink

 二重螺旋の DNA には遺伝情報の変化を抑える仕組みがあるが、一本鎖の RNA にはその仕組みがないそうだ。だから情報の変異のスピードが速く、変異が起こってもそれを修復しないので、新しいものが出てくるらしい。
 病原体となりうる細菌やウイルスは世代交代が速く、人類がそれに追いついてゆくことの困難は理解していたが、現代の生物学では分子レベルでの説明が要求される。 DNA から RNA が作られ、mRNA を経て蛋白質が合成されることまでは理解していたが、 RNA のそのような仕組みまでは知らなかった。Newspaper in Education のおかげである。

 中華人民共和国とは地理的な近さもあり、人間の往来も多い。経済的にも深く結びついた隣国であり、日本にとっても重大な事態であると感じている。COVID 19 の拡がりは現在進行中の脅威であり、軽々しく論評することは避けたい。ただ、これから訪れる春季や夏季に於ける日照時間の増加や温度の上昇が、少しでもウイルスの拡がりを抑えてくれることを願うばかりである。

 老父が亡くなって以降、日当たりの良い居間で勉強をすることが多くなった。太陽に勝る暖房器具はないと感ずる今日此頃である。炬燵やエアコン、ガス暖房なども備えてはいるが、日光の良く入る居間を設計してくれた建築士の老父には感謝の言葉しかない。晩年は認知症を八年間も患い、自宅での介護を余儀なくされたが、ありあまる恩恵を受けているように思う。
 もちろんその恩恵の根源は太陽であり、自然の恩恵を受けているとも言える。今年も庭には野鳥が飛来し、ジョウビタキ、シジュウカラ、メジロ、キジバトなどが拙宅を訪れてくれる。鳥類の良いところは鳴き声の美しいことで、視覚を文書に奪われていても、聴覚で楽しめるのが良い。

 日本国憲法第25条第2項では、公衆衛生の向上及び増進についての国の努力義務が定められている。社会保障分野に於いても自助や共助の言われることの多い昨今ではあるが、個人の能力には限界がある。人知を結集して COVID 19 に対処していただければと思う。

 参考文献 : 長谷川真理子「文明の恩恵と脅威」静岡新聞 2020 年 2 月 21 日 朝刊

コハクチョウ 其之十一

Bewick’s Swan

 今季もコハクチョウが鶴ヶ池へ飛来した。

 情報は入手していなかったが、12月も半ばを過ぎた日曜日の早朝に訪れてみると、二羽が池にいる。カメラマンの方から水曜日には飛来していたことを教えていただいた。日曜日の未明、私は体調が芳しくなく、鶴ヶ池へ行くことも逡巡していたのだが、行かなければ後悔が残る。重い身体を起こして支度し、自動車を運転して鶴ヶ池に向かった。コハクチョウを観ることができて幸いであった。
 コハクチョウを観るうちに体調も回復し気分も良くなって来る。これもある種のセラピーであろうか。毎季のことで顔見知りとなったカメラマンの方々との再会もまた楽しく、彼らとの会話もまた、私の身体や精神の不調にとっての救済であるような気がする。ありがたいことである。

 一昨年、昨年と短期間の滞在が続いたので、翌日からは午前五時台を目処として、毎朝来訪することとした。冬至に近い頃で、日の出は午前六時台の遅い時刻であるが、晴天であれば日の出前にも空は明るい。午前七時台までねばれば、かなりじっくりとコハクチョウの生態を観察することができる。
 このような継続的な観察こそが本来の学術的な姿勢だと思うが、私にはこれまでそこまでの自覚がなかった。私は生物学に関する専門的な教育を受けておらず、修士課程程度の調査研究能力を身に付けたいと思いながらも、具体的になにをすれば良いのか方法が分からずにいた。
 まずは学部程度の知識と技能の修得が必要だとも思うが、読むべき文献すらわからない。写真撮影の技能もなく、建築士だった父の遺品のコンパクトデジタルカメラで撮影している。本格的な一眼レフや望遠レンズで撮影できるだけの技能などないのだ。
 むろん私の目的は鳥類の生態観察にあるので、さほど写真撮影に拘泥することもなく過ごしてきたのであるが、カメラマンの方から教えていただくこともあり、写真撮影についても自学自習しているのが現状である。そのモノを所有することができなくても、その操作方法について知ることには意義がある。

 今季は桶ヶ谷沼にオオハクチョウの飛来があった。運良く観察することができ、コハクチョウとの違いを実感することができた。オオハクチョウは水面から空中へ浮揚するまでが速い。翼の大きさや推進力によるものかと思うが、コハクチョウとは明らかに異なる。
 フィールドスコープで嘴による識別も観察することができた。オオハクチョウの滞在は11月下旬の短い期間であったが、このときも連日訪れることで観察することが可能となった。フィールドに足繁く通うことの大切さを痛感している。

 真冬の午前五時はまだ暗闇の時間帯で、コハクチョウは塒の中で休んでいる。彼らが行動を始めるまで、少し時間を持て余すが、新月と晴天の重なった日には、星が良く見える。北斗七星を観ていると、他の星の名前も知りたくなってくる。天体を観ることもまた自然観察であろう。
 宇宙や気象といったものにも興味が湧いてくる。地形、地質なども含め、幅広い視野、多様な観点で総合的に観察することが、専門的な知識や技能を高めるための基礎になるようにも思う。

教育について 其之三

water willow

 日本国憲法では教育を受ける権利が保障されている。子供の学習権を規定したものであり、学校教育のイメージが強いが、現代は生涯に於いて学習の必要な時代であり、義務教育のみならず、高等教育やリカレント教育まで、広範な視野を持って教育を受ける権利を考えるべきではないか。

 むろん教育を受ける側の主体性なくして教育を受ける権利の主張は成り立たない。教育を受けるということは、学習すること、勉強することである。学習は自然に覚えるもの、勉強は強制的に自分に覚えさせるものだ。学習に苦労することは定義からしてありえないが、勉強に苦労することは充分に考えられる。
 勉強でも、試験のないものはさほど苦にはならないが、試験を前提としたものは苦しい。試験に於いては明確に数値化された成績というものがあり、ときにそれは合格と不合格を分けるラインとなって、それまで勉強をしてきた者に対して、社会的な評価としてのなにかを与え、若しくは与えないという分断をもたらす。大学への入学試験、国家資格試験など、義務教育以降の教育には必ずと言ってよいほどなんらかの試験が関連している。そこでの勉強は受験勉強となり、勉強の中でも非常に苦しいものとして経験される。
 優秀な教師や優良な教材に恵まれれば、受験勉強を乗り越えることも容易なように思うのだが、そのような教師と出会ったり、教材を入手したりすることがそもそも難しい。優良な教材を入手することができても、それを自分のものにするまでには長い時間を要する。教材の擁する膨大な分量の知識を、学習開始から試験日前までの相当の期間内に割り振り、日々勉強のために時間を割くことが必要になる。教材を網羅的に一巡するのに最低でも数ヶ月はかかるだろう。
 しかし試験では、その試験範囲の全体が一日で問われるのであるから、数ヶ月かけて積み上げてきた膨大な分量の知識を体系化し、容易に検索できるよう整理しておく必要がある。数ヶ月を過ごす内には綻びやムラもあろうから、模擬試験などで自分の弱い部分を発見して、補修しておく必要もある。知識を覚えやすいようにまとめ、正確に記憶し、答案を書く練習をし、それらの行為を何度も反復することにより、試験に合格できるような自分を育成してゆく。試験日に近い日ほど、覚えたことは思い出しやすいものなので、直前期は特に記憶することに集中する。医師になるための勉強の九割は記憶することだそうだ。だが、これらの努力も試験に合格する要素として見れば、いまだ準備段階を経過したに過ぎない。
 試験当日に残りの決定的な要素がある。いくら受験勉強を重ねたところで、当日の試験の出来が悪ければ合格することはできない。体調の管理が充分でないと頭が働かない。文章が頭の中に入らず、論理的に思考し判断することができず、数値の計算を間違え、つまらないマークミスをしてしまう。長期間の受験勉強に真面目に取り組んできた受験生が、試験に合格できなくても特に驚くべきことではない。試験というのは、そういうものなのだ。
 
 試験には勝負事のような側面がある。報われない結果のあることを予想しつつ、なお受験勉強を重ねなければ、試験に合格することなど決してありえない。社会の側から見れば試験はスクリーニングである。努力に対する酷薄さも当然の仕打ちなのだ。だが、個人の側に立ち教師や教材による支援を拡充することで、それに対抗するものを強化しなければ、均衡を欠くことになる。高等教育やリカレント教育に於いても、教育を受ける権利は尊重され擁護されるべきなのである。

メディアについて 其之三

water pepper

 誰しも個人的な意見を述べるにあたり偏向してしまう事態もあろうかとは思うが、それを矯正して常識人であろうとする意志もまた存在するように思える。言語感覚と市民感覚には繋がりがある。

 参政権を行使するような、国や地方公共団体のような大きな社会に於いては、基本的には「読む能力」が必要になる。書籍やウェブ、新聞、その他の出版物に目を通すとき、私は市民社会の入り口に立つ気分になる。そこで目を逸らしたくなるような事実を見つめ、感情に訴えるだけのような極論や暴論を含む多様な意見を受け止め、今までの人生の中で得てきた学識を論拠に分析や検証を試みる。メディアから充分な情報を得ることができなければ、政治について思考することも判断することもできないが、そこでは自分の言語感覚を頼りにせざるを得ない。
 そして、自分の中から湧き上がってきたものに対しても、そのまま吐き出すようなことはせず、とりあえず書き出してみる。私の意見となるであろう言葉の選択に誤りはないか、文章の論理に矛盾がないかを確認する。書くことは先ず自省のための行為である。書くことにより、私の考えは将来へと生き延び、また地理的にもより遠くまで届く可能性を獲得するが、そこで使われる言葉には自分の言語感覚が如実に反映してしまう。大きな社会では「書く能力」が有効なのであるが「書き言葉」の選択には慎重を期さなければならない。

 人と人とが直接に対話することの可能な小さな社会では「聞く能力」「話す能力」が決定的に重要である。認めたくはないが事実であるものごとを直視し、ミスリードや揺さぶりにも負けないよう正気を保ち、曖昧な記憶や空覚えであるものをきちんと確認する。
 厳密に言えばどうなのか、詳しく言えばどうなのか。論理的な思考を進展させる基礎として、知識の正確さというものは重要であり、それを担保するために勉強を重ねることは、市民として対話に臨む際の真摯な準備作業である。勉強は言語で行われる。これは独りの時間に積み重ねるものではあるが、多くの人と対話するために不可欠な作業なのである。
 咄嗟に口から飛び出してしまう「話し言葉」の選択は、じっくりと時間をかけ推敲することもできる「書き言葉」の選択よりも難しい。国務大臣の舌禍事件などは他山の石であり、まさに綸言汗の如しというところだろう。公式のスピーチのときには台本を備えておくことが必要である。私も喪主挨拶のときは原稿を用意した。「話す能力」にも注意深くあらねばなるまい。

 自分の感覚に任せて自然に話すことが、常識人として正当な行為になるなら、社会でも生きやすくなる。言語感覚を磨くことにより、健全な市民感覚を得ることができればと考えている。