忌中

 

忌中により休載いたします

 羊坂珠音

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料理について

Clematis

 料理とは、味覚と嗅覚、触覚により感受される芸術である。

 料理に関する知識と技能を修得することは、新たなコミュニケーションの手段を獲得することにつながる。私は、調理に関しては一年生で、生物学、化学、物理学などの知識をもとに、自分なりに調理の理論を探っている最中である。
 テレビのグルメ・料理番組、ウェブ、書籍などが主な教材であるが、なるべく多くの教材に目を通して、基本的な構造を理解するようにしている。グルメ・料理番組で現役のシェフが技術の解説をしてくれるものなどは本当に勉強になる。
 むろん実践も大切で、技能を修得するためにも様々な料理に挑戦したいところであるが、老父には介護食を、老母には高齢に配慮した料理をつくらなくてはならず、自分の興味や関心をそのまま追究できないことがもどかしくもある。
 母の日にはポトフをつくった。老母は牛肉が好きだが、胆嚢炎を患って以来、油脂の多い料理は好まない。大根、人参、セロリ、キャベツ、玉葱、白葱とともに、牛の腿肉を柔らかく煮込んだ。野菜が煮崩れて、インスタ映えするような外観ではないことが残念だ。次回は視覚的にも美しいポトフをつくりたい。野菜の煮方を工夫してみよう。
 デイサービスやショートステイで老父の食事介助から解放される日には、老母の希望で寿司を食べに行くこともある。家庭では食材の調達や調理が困難なものについては、美味しいものの食べられる店を探しておくことも必要だ。東京には良い飲食店が多くて羨ましい。また、東京に行きたいと老母は言う。

 孵化したばかりの鈴虫の幼虫が茄子を食べている。彼らのために茄子を切ることは、彼らの味覚への贈り物であると空想している。数ヶ月後、彼らは私の聴覚に返礼をくれる。

対話と提案

oriental false hawksbeard

 家庭料理の幸せは、かならず「食べる人」のいてくれることにある。

「なにか食べたいものある?」と老母に訊く。そのときには、すでに自分の提案できる献立を胸中に秘めている。対話を試みて、相手に考えのないようであれば、自ら献立を提案する。
 自分の提案できる献立は、当然のことながら自分のつくれる料理の範疇にしかない。料理のレパートリーをひろげておくことは重要である。自前の献立を強要するのではなく、家族が好きな料理を選べるように、選択肢をできるだけ増やしておかなければならない。
 和食、中華、洋食。様々な食材や調味料に関する知識や調理技法の修得など、学習しなければならないことは多い。特に調理の段取りや手順については暗記しておく必要がある。調理中は両手が塞がっているし、火にかけたものからは目を離すことができない。複数の工程を同時に進行させたり、瞬時に判断して行動しなければならないことも多い。
「クッキング基本大百科」集英社 2001 という書籍が、老母の本棚にある。発売当時、母の日に私がプレゼントしたものであるが、現在は私の教科書となっている。テレビのグルメ・料理番組も録画して勉強させていただいている。

 老父は認知症を患っており、まともな会話はできない。
 それでも観察していれば、なにがしか理解できるようになる。現在は介護食で、ハンドブレンダーで御飯をなめらかに潰したり、味噌汁にとろみを加えたりして、介護用の特殊なスプーンで与えている。食事介助は老母の仕事である。
 認知症の高齢者を自宅で介護するためには、最低でもふたりの人間が同居して、そのうちひとりは若い世代であることが必要であるように思う。朝食の前に排泄介助や陰部清拭を行わなければならないこともある。老母が老父の濡らしたものを洗濯している間に、私が朝食をつくるのだが、その間も私は老父の身体を持ちあげたり支えたりして、老母の作業を手伝わなければならない。痩身であっても高齢者の身体というものは存外に重いものである。
 老父母の寝室から玄関までの動線に手摺を工事した。訪問看護の契約もした。自宅で介護する態勢は整えられたように思う。
 
 家族に美味しいものを食べさせたい。それが私の家庭料理への情熱となっている。

春愁 其之三

Common sowthistle

 今年の冬は寒く、老父は呼吸器を患って市立総合病院の御世話になり、私は連日、郊外にある病院へ自動車で通うことになった。病院までの移動は老母には負荷が重い。病院行きのバスに乗車するための停車場は拙宅から遠く、また運行の本数も乏しい。

 福島県の復興に関するテレビ番組を何本か視聴したが、いずれの地方の抱える問題も、その基本は変わらないように感じる。公共交通、食料品、医療・介護、教育。交通手段が確保されているか、物流が機能しているか、病院や介護施設はあるか、教育機関はあるかなど、生活に必要な最低限の要素を満たすことこそ、地方の復興する基本的な条件として再考されているように思う。

 地方に住む私たちは「欲望に駆られて」生きているわけではない。ただ、老父母が平穏に健康に過ごせるように、日々、格闘しているのである。
 現在の課題は、老父の食事介助と排泄介助及び陰部清拭、入浴介助などである。ここに浜岡原発の事故が起こっても、私たち家族は石川県や岐阜県まで避難することなどできない。老父を移動させる際には骨折のリスクがつきまとう。老母は辛うじて健常者であるが、健康には不安がある。
 温暖な静岡県で過ごしてきた老父母が、寒冷な地域で生き延びられるとも思えない。私自身も老父母に殉じて行動するしかない。原発からの避難など絵空事でしかないのである。

準備と即興

Narcissus


 Gourmet は食通、Gourmand は大食漢と翻訳される。Gourmet には憧れるが、地方では飲食店の数が大都市圏よりも少なく、集積することなく散在している。自動車社会なのでノンアルしか飲めないのも外食の興趣をそいでいる。

 老母が炊事を引退して以来、料理は私がつくることになった。教材はテレビのグルメ・料理番組である。広いキッチンと豊富な調理器具、潤沢な食材の溢れる料理番組よりも、狭い空間でアイディアを活かし、調理を工夫している食堂やレストランを紹介するグルメ番組のほうが、むしろ参考になることもある。
 家庭料理に於ける要件は、安全と衛生の確保、家族の健康への配慮、美味しさの追究の三点にあると私は考えている。
 食材や食器、調理器具、調理場などを清潔に保つことを前提として、家族への問診により健康に配慮した献立を考える。この際に必要なのは栄養学の素養である。さらに美味しい料理をつくるためには調理技能の修得が必要であり、教材からの知識とともに日々の訓練が欠かせない。空間と時間の制約、経済的な制約の中で、これらの三要件を満たし、向上させることが、家庭料理に対する私の基本姿勢である。

 天ぷらなら揚げたて、ソテーなら焼きたてを家族にふるまうことができるのは、家庭料理の魅力のひとつである。主菜となる揚げもの、焼きもの、炒めものなどの調理は即興であり、そこに至るまでには準備が欠かせない。鮮魚や精肉などは特に下処理が重要である。
 サラダやスープなどの副菜はメインディッシュよりも先に着手する。スープは先行してつくり配膳する直前に温め直す。ポテトサラダなどは前日の夜につくりおきする。それらも昼の食卓のための準備である。
 食料品の調達は原則として一週間に一度であるから、食材や調味料のストックについては恒常的に把握しておく必要がある。これは週の食卓のための準備である。また、食材には季節がある。私はまだ春夏秋冬の一巡りを経験していない初心者だ。食卓のマネジメント能力を修得して、四季の食卓のための準備を円滑にすることが、現在の私の課題である。

コハクチョウ 其之九

Bewick’s Swan

 今季もコハクチョウが鶴ヶ池へ飛来した。12月中旬のことである。
 当初の6羽のうちには幼鳥もおり、次世代も期待できる。

 現代社会は、ミスを誘発するシステムに溢れている。
 対人サービスに於いては機械化の進展が著しいが、その機械の扱い方が判りにくく、ミスを誘発している。注意喚起のラベルがベタベタ貼られているのは、利用者や消費者のケアレスミスが頻発している証拠である。他の利用者や消費者のミスにより、自分が損失を被ることもある。
 販売やサービスに於ける従業員のミスを見ぬくことができないのは、利用者や消費者としてのミスである。従業員はミスをするものであることを認識して、検品・検算・ミスの指摘を早期にすることは、利用者や消費者としての責務であると私は考えている。

 ほんの些細なケアレスミスに対するサンクションは大きく、リスクを回避するためには利用者や消費者としての行動を自粛せざるを得ない。
 私は可能な限り外出や買物を避けるようにしている。それでも医療機関、食料品店、交通機関など、生活の基盤を支えるものには関与せざるを得ず、そのような場合には細心の注意を払って行動している。

 コハクチョウの羽根の純白は、現代社会とは無関係な純白である。
 その純白に癒されて、なんとか生きている。