教育について

okegayanuma

 新聞やテレビなどのメディアがなぜ存在するのかという問いに対する、もうひとつの答えは「家庭教育の教材として」というものである。
 新聞を読む行為は単純に読解力の基礎的な訓練になるし、テキストでは表現しきれない、例えば外国語教育に於ける「発音・リスニング」や、理科教育に於ける自然現象の映像による表現などは、テレビならではのものではなかろうか。Newspaper in Education や Educational TV に私は期待している。

 教育という言葉は「上から目線」のようで気恥ずかしい。私も勉強中の人間であり、むしろ「勉強法」という方が自分の気持には合致する。児童や生徒は勉強法を共有する仲間であり、上下関係などあるはずもなく、こちらが教えていただく立場にもなりうることである。
 ひとから質問されて解答解説しなければならない役割を担うこともあり、そのようなときには間違いのないよう注意義務を鋭敏にして発言をするが、やはりひとに答えるために準備をしておくということは、自分にとっても最良の勉強法であるということを痛感している。
 数学、物理、化学、生物、地学の各科目について、センター試験レベルまでを備えておき、小学生からの質問に応えるというのが現在の私のやり方であるが、児童に主体性をもたせ、対話的に教育を進めてゆくためには、そのくらいの準備は当然であるし、またどんな児童にも将来の利益を保証するという点において、高校で学習する内容を早めに教えておくことには意味があるのではなかろうか。
 自然観察会の現場では児童が主役になる。その児童が「虫がどこにいるか」を発見できれば、児童を大人よりも優位な立場に置くことができる。児童の自尊心を大切にし、児童に対して発見の礼を言うことが、まずは大人の仕事であるように私は思う。双翅目だの膜翅目だの節足動物だの言い始める前に、児童をひととして尊ぶことが大切である。理科の成績に直結する知識の伝授はそれからでも遅くはない。
 最終的には楽しく時間を過ごせれば良い。「あの時間は楽しかったなあ」という想い出にしていただければ、初等教育の使命は果たせるように私は思う。「生きていて楽しい」と思えることが、その後の勉強のモチベーションにつながるのではなかろうか。

 児童や生徒は教材の限界を超えることができない。新聞やテレビなどのメディアに於いては、家庭教育に於ける教材であるという使命を再認識し、間違いのない信頼のおける教材を提供していただけるよう願ってやまない。

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