日本語を学ぶ 其之十 [完]

ensyu nada

 もし、私が英語圏に生を受けていたら、日本語を勉強することはなかっただろう。
 私は、英語とフランス語を自分の外国語として選択しているが、この二カ国語の類縁性にくらべれば、日本語は遠い位置にある。古代中国の漢語まで視野に入れれば、日本語の学習とは、実に長大な時間のかかるものだという気がする。さいわい教材が身近にあり、安価であるから気にならないだけで、そこに費やす時間がなければ、英語やフランス語のみで、より進んだ勉強ができていたかも知れない。
 英語を母国語とする人々が国際社会において有利であることは、多くのひとが感じていることであろう。私も、英語が母国語であればと夢想したことがある。しかし、日本人を両親として、日本列島に生まれ、日本の教育を受けることになってしまった。特に、初等・中等教育においては、すべての授業は日本語でなされるので、私は必然的に日本語を学ばざるを得なかった。
 例え話として、算数の文章題のことがよく言及されるが、理科や算数ですら、日本語の理解を前提としている。高等教育で言うなら、数学、物理、化学などの諸分野についても、基本的には、日本語による専門用語の正しい定義から学習は始まる。そこで得た知識を基礎として、私たちは、身のまわりで生起する自然現象などを観察し、理解し、他者へ説明することを覚える。
 特に、日本の自然現象を観察し、記述することを考えれば、やはり日本語の豊かな語彙に頼らざるを得ない。私が、俳句の季語に興味をもったのは、そんな理由もある。植物の観察などは一年を通じてみなければわからないものであるが、そのような機微が季語には表れているのではないか、と感じている。より古い時代の和歌も含めて、近世以前に実証主義的な自然観察の記録があることは、興味深いことである。
 近代以降には、英語やフランス語などの外国語からの翻訳を参考とした、日本語による自然科学の蓄積がある。学問のもたらしてくれる知見には、感謝の言葉しかない。総じて、現代までに日本語で書かれた知的財産を享受できることは、喜ばしいことである。
 言語は「決めごと」である。そこに自然の秩序があるわけではない。恣意的に決定された言語は、断片的な事実や情報を指し示す記号にしかすぎない。むろん、そこに人工的な秩序を仮想し、自然の秩序に似せようとする努力は、恒常的になされている。しかし、言語は、いつも話者の期待を裏切る。聴者による誤解の可能性を、完全に否定することはできない。
 そのような言語を使いながら、身のまわりで生起する自然現象などを、厳密な精度で再現するという技術こそ、私が、これから取り組んでゆかなければならない課題だと考えている。そのために私は、これからも日本語を学び続ける。