文章について

Okegayanuma

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 私が毎月、このブログで拙い文章を書いているのは、現代文の勉強を考えてのことである。センター試験の現代文では、評論と小説が、それぞれ50点の配点で出題されるが、それにあわせるかたちで、論理的な文章を「随筆」として、文学的な文章を「小説」として書くことを試みている。文章を書くことは、その模範となるような優れた文章を読む動機にもなる。
 社会人になると雑多な文章の読み書きに追われて、本格的な評論や小説を読む機会は少なくなる。日常的な文書は、そのやりとりをする双方の間で共有されている、なんらかの予備知識を前提として書かれることが多く、それは時間短縮のためであるとは思うが、あまり論理的でなかったり、表現として適切でなかったりしても、通用してしまうようなところがある。
 人間関係の円滑さを尊重して、日本語としてのおかしさを指摘しない、指摘されないような場合もある。例えば余程親しい間柄でもない限り、その方の書かれた文章に対して「ヘンな日本語ですね」とは言わない。「ヘンな日本語を指摘していただいてありがたい」と感謝されることもないとは言い切れないが、ひとの感情を害するリスクを敢えておかすこともない。自尊心が国語辞典を超越しているようなひとは世間に珍しくない。
 むろん言葉は道具であり、社会は共存することに意義があるのだから、無意味な衝突を避けるという意味で、日本語という道具にこだわることは、あまり良いこととは言えないのかも知れない。だが、一方で日本語には、センター試験として厳しく評価されるという一面もある。センター試験で要求されるものは、高等教育を高次の義務教育と考えた場合に期待されるものを示しているように思う。数学や理科などの各教科では専門的な語彙を修得するが、現代文では一般的な語彙を修得する。国語辞典を典拠として、適切な語彙と正格な文法を遵守しなければ得点することはできず、延いては大学に進学することもできず、社会に参加すること自体が難しくなる。
 既に大学を卒業してしまっているから良いというものではない。先輩は後輩に模範を示さなくてはならない。少なくとも高校で現代文について学び、大学に進んだような人間であるなら、現代日本語について反省する時間を持つこともできるのではないか。
 教育は未来を創る。教師による学校教育は社会の根幹であるが、社会人が言葉という道具をキレイに使うことは、その模範を示すという意味で実践的な社会教育でもあるように思う。言葉をキレイに使うためには、自分だけではない、相手への配慮も欠かせない。言葉を学ぶことには倫理的な意義もあるように最近は感じている。

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