天御子神社

amamiko jinjya

 淡海國玉神社から天御子神社までは、東海道見付宿を西進し、あるところで小路を曲がって、近道をする。その小路を抜ける脇には、日当たりの好い小さな草叢があり、そこには水仙の花が咲いている。一月一日の水仙である。
 小路を抜けると、自動車の通りの多い国道一号線に出る。横断歩道を渡って、南に進むと、府八幡宮の森が見える。その森は、磐田原台地の下から上までを覆っている。その台地の上には、郵便局や、税務署や、県立高校がある。
 天御子神社には、その森を西に見ながら、更に南へと進んで行く。森の手前には、広いグラウンドがある。小学生の頃、友達に誘われて、遊びに来た場所である。
 広い道を途中でそれて、緩い坂道を上がるとすぐに、天御子神社の鳥居がある。元日の飾り付けはしてあるが、参拝客の姿はない。近傍を歩く人はいるが、今時分に参拝する者は、私一人だけのようだ。もう、だいぶ日も西に傾いている。
 天御子神社は、こざっぱりとした、小さな神社である。見付三社では、ここが最後の参拝となる。賽銭を投げ、拍手(かしわで)を打つ。二拝、二拍手、一拝の作法を踏襲する。父のお蔭で、こういうことだけは身に付いている。
 参拝を済ませると、私は周囲の緑を巡った。この神社もまた、しっかりと樹木を従えている。樹木の下には豊かな下草が繁り、その緑は、坂に沿って斜めになる土地を、丁寧に覆っている。枯草や枯葉のないわけではないのだが、緑色の印象が強い。
 ここは、見付と中泉の境界のような場所だ。中泉の神社である、府八幡宮の森が、すぐ目の前にある。しかし、府八幡宮を表参道から参拝するのであれば、更に坂道を上って、一度、中泉へ出なければならない。
 府八幡宮の森の、向こうにある県立高校が、私の母校である。この距離まで近付くと、やはり母校のことが思い出される。この母校から、多くの友人が、故郷を離れて行った。私も、十八歳で遠州を出た。長男なので帰って来たが、出たきりの者も多くいる。
 高校の南には、国指定文化財、特別史跡の遠江国分寺跡がある。奈良時代に、遠江国府や遠江国分寺、遠江国分尼寺などが建てられていた場所である。現在では、芝生が敷き詰められた、日当たりの好い、広い場所になっている。
 自宅から、その高校までは、だいぶ距離があったが、三年間を歩いて通った。おかげで、この辺りの土地については、熟知することになった。朝の通学路は速足にもなったが、帰り道を急ぐ必要はなかった。私一人のときは書店に寄り、友人と一緒のときは、会話を楽しみながら帰った。大学に進学することが当り前の高校で、だいぶ勉強に時間をとられた。しかし、その勉強のお蔭で、なんとか今があるのだとも思う。そして、更に現在でも、勉強を続けている。
 高校時代の友人とは、いまだに一緒になって遊んでいる。故郷に住む者の楽しみである。
 さて、帰路に着く。見付三社をすべて歩いて、人心地の付いたような気がした。夕方になったが、周囲は、まだ充分に明るいし、暖かい。
 この気分を忘れないように、文章にして残しておこうと思った。私を、このような気分にさせてくれるのは、遠州の気候であり、自然だ。当り前のようなものであるからこそ、書いておかなければ、忘れてしまいそうな気がした。

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淡海國玉神社(遠江國総社)

oumi kunitama jinjya

 一月一日の「中の宮」は静かであった。初詣をする人が、まったくいないわけではなかったが、私が参拝を済ませた後は、まるで写真撮影のために時間を空けてくれたかのように、一時、誰もいなくなった。
 見付の人々は、淡海國玉神社のことを「中の宮」と呼ぶ。この神社は、見付宿の、ほぼ中央に所在する。矢奈比賣神社(見付天神)からは、坂道を下り、東海道を歩いて、参道へと曲がる。こちらの参道は平らで、距離も短い。見付天神裸祭では、御神霊が、このふたつの神社の間を行き来する。
 参道の途中には、国指定文化財の旧見付学校がある。現存する、日本最古の、木造で洋風を擬した小学校の校舎であるという。白い壁が、冬の澄んだ青空に映えて、美しい。
 神社の境内の、東側には簡単な遊具があり、西側には広い「原っぱ」が広がっている。ここは、見付の子供たちの、古くからの遊び場である。見付の町の「二番町」にある公立の小学校から「馬場町」にある中の宮までは、歩いて近い距離である。見付の町は、更に細かい町に分かれており、それは祭りのときの集団になる。
 基督教系の私立幼稚園を卒園した私は、その公立小学校に通うことになった。私は、この小学校に通うことで、見付の町の本当の住人になれたと思う。それは、元来よそ者であった、私の両親についても、言えるかも知れない。
 見付の子供たちは、この小学校に通う六年間のうちに、何回かのクラス替えをすることによって、町中に知り合いを増やす。この町は、東海道に沿って、東西に長く広がり、多くの小路を通じて、南北にも広がっている。全体として、磐田原台地に囲まれた谷のような土地である。谷の底には川がある。見付の人々が「中川」と呼ぶ、今之浦川が、短い橋の下を流れている。
 見付の子供たちは、揃って同じ中学校に進学するから、都合九年間で、同世代の大概の者を知ることになる。直接に話すことはなくても、顔を見たり、噂話に聞いたりということは多くあるから、名前を出せば「ああ、あいつだら」ということになる。
 人生で、いつの時代が楽しかったかと言えば、それは小学校の時代であった。なにしろ勉強をした覚えがない。もちろん、学校を休むような児童ではなかったから、授業だけは聞いていたが、放課後や休日になれば、遊んでばかりいた。
 外で遊ぶことの方が多かった。友達が多く集まれば球技をした。ひとりになれば虫取りをした。集団を結成して冒険に出かけ、雑木林や草原を走破し、腕や脚に切り傷を負って、家に帰った。
 中の宮は「缶蹴り」をする場所であった。神社の北は森であり、その植生は、西側にある原っぱの向こう側にまで続いている。南は旧見付学校で、原っぱの中央に空き缶を置くと、身を隠す場所がふんだんにあった。私は足が速かったので、よく缶を蹴り飛ばした。
 缶を蹴るのは、痛快ではあったが、蹴られた鬼が可哀想にもなった。あまりに同じ鬼が続くようだと、その缶蹴りは仕舞いになった。
 景色は変わらないが、身体が大きくなった私には、もう隠してくれる場所がない。