クビキリギス

Kubikirigisu

Kubikirigisu

 夕方、近所から水菜を貰い帰ってきた老母が、縁側で泥を落としながら「バッタがいるよ」と私に告げた。二月も末のことである。
 老母は水菜にしがみついている鮮やかな緑色の昆虫を私に示した。「ああ、それはキリギリスの仲間だね」と私は早々に応えておいた。遠目にも脚の長さが目立つ。よく観察すると、口の部分が赤い。越冬する昆虫であるということも考えた。
「バッタではないんだ。クビキリギスだと思う。これは水菜よりも嬉しいね」と老母を笑わせて、私は昆虫をありがたくいただいた。
 念のためにウェブで調べてみても誤りはなかった。最近の私は、どんな小さなことでもウェブで調べて確認をとるように心がけている。ひとに嘘を教えてはならないからだ。
 見間違い、思い違い、言い間違い。間違いは誰にでもあるものだが、自分自身の間違いに寛容でいることはできない。特にウェブで調べごとができるようになってからは、植物や昆虫の画像やテキストを、何種類も確認することができるようになった。生物学上の種を同定する精度は向上していると思う。

 クビキリギス(キリギリス科)については話も聞いていて、実物も見てはいたが、このようにして実際に飼育するのは始めてのことだ。キリギリス科とコオロギ科に属する昆虫には鳴くものが多い。鳴く虫の声を聞きわけることのできる先生に「どのようにすれば、先生のように虫の声がわかるようになりますか」という質問をさせていただいたとき「飼って覚えるんですよ」という御指導をいただいた。
 スズムシやマツムシ、クツワムシなど、小学生でも覚えられそうな特色のある鳴き声を持つ昆虫もいるが、地味にしか鳴かない昆虫も多い。しかし、そんな昆虫でも先生は声だけで種を同定されるので、私は先生が羨ましかった。
 私は、それほどの昆虫マニアというわけでもないが、伯母の遺産としてスズムシを譲り受けて以来、鳴く虫に関しては格別の注意を払わざるを得なくなっている。それ以前、私は主に鳥類に関心を持っていたのだが、その魅力の一端は、やはり美しい鳴き声にあった。現代音楽を多く聴いていた頃、オリヴィエ・メシアンによる鳥の声をモチーフとした作品に触れたこともあり、芸術的な関心もあって、野鳥を中心とした自然観察を趣味とするようになった。

 現代は辛い時代で、大学を卒業してからも長期間、長時間の学習を余儀なくされる。夜、私が勉強していると、クビキリギスが静かに鳴き始めた。その声は、なかなか途切れることがない。そんなことが励ましとなり、なんとか私も生きのびているような気がする。

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