日本語を学ぶ 其之八

ubatamamushi

 

 人間は、物理の法則にしたがわない行動をとることができない。人間は、化学的には、ほんの数種の元素で構成されている、生物の一種にすぎないのである。
 センター試験の二日目は、数学と理科である。数学は、指数・対数、三角関数、微分積分、数列、ベクトルまで。これらは必修科目として勉強しなければならない。理科は、物理、化学、生物などから二科目を選択することになる。
 物理と数学は、運動法則と二次関数という大きな基礎が共通しているので、これを統合して学習することが有効かと思う。古典力学は、私たちの身の丈にあった世界を説明するのに普遍的な言語なので、受験勉強を離れた実生活でも役に立つ。
 例えば、私の住む遠州は、自動車がなければ生活もできない地域の多い田舎であるが、自動車の運転をするさいには、質量や加速度などのことを勉強しておいたほうがいい。切り貼りの知識ではなく、法則を理解しておくことが、緊急時に自分と同乗者の生命を守ることになる。
 私たちの時代では、すでに電気製品の利用が生活の基本的な条件になってしまっている。食料品の流通は、冷凍庫や冷蔵庫の存在を前提としている。照明がなければ、屋内で家事をすることも、勉強することもできない。現在、このブログを書くのに使用しているパソコンも電気製品の一種である。ディスプレイから溢れる光や、スピーカーから流れる音は、波である。波の性質について学習することも、物理の大きな基礎である。
 化学は、より生活に密着した科目といえるだろう。毎日、食器洗いや洗濯、掃除をしない家庭などないと思うが、それらに使われる洗剤は、すべて化学製品である。水道水、ガソリン、プラスチックなど、生活に必要とされる物質について、その化学的な性質を知っておくことは、まさに生活の基礎という気がする。
 生物も、生活のために学習しておくべき科目のように思う。日常の料理の素材は、すべて植物か動物である。食器洗いや洗濯、掃除で追い払おうとするものも微生物である。代謝などについて知ることは、ひろく健康管理の基礎になると考えられる。
 私は、学生時代の勉強は、職業上の準備をするためだけのものではない、と考えている。特に、物理や化学の学習には、社会人になったとき、家事のできる人間になることに、ひとつの目標があるように思う。自分の生活に必要な物質やエネルギーを正確に把握したうえで、その数量を計算し、適量を購入して消費する。そのような一連の行為を賢明になしえないかぎり、自分も損失を被るし、他者にも迷惑をかける。家事は知的活動である。
 私は、社会人になってからでも、センター試験のために書かれた参考書などを手にとることには、充分な意義があると考えている。新しい発見があって、それまでの記述が書き直されていることもあるし、また、送り手側による表現方法が進化していて、より解りやすいものになっている可能性もあるからだ。
 これらの書籍は、すべて日本語で書かれている。近代以降、日本の自然科学者たちが築きあげてきた、日本語での学問の世界である。私は、このシリーズのタイトルを「日本語を学ぶ」としているが、「日本語で学ぶ」とも解釈していただければと、あらためて考える。自然科学の対象となるものについては、英語やフランス語などによる説明がなされてきたが、それらの成果を日本語により表現するためには、「外国語を翻訳する」というよりも、「日本語で構築する」というような作業が行われてきたようにも思える。
 人文・社会科学の範疇にあることを考えるにしても、自然科学のことを理解していなければ、事実を認識することさえできないだろう。日本語の世界に、これらの学問の蓄積のあることが、日本語を学ぶことへのモチベーションを高める要因にもなると考えている。