日本語を学ぶ 其之五 俳句について

ensyu nada

 ツイッターを始めてから、朝の挨拶として俳句を詠むようになった。
 もともと自然観察を趣味としていた人間なので、その成果を題材にすれば良いと、気楽に考えていた。ところが、高校レベルの古文の参考書などをみて、季語という人為的な規則があることに気がついた。正直なところ、これには閉口した。観たまま、聴いたまま、感じたままを句に詠んだのでは、俳句として認められない可能性がある。「季語が違う」とか「季語が重なる」とか、季語を論拠に俳句を批評するひとは多い。その良し悪しとは関係なく、そのような読者も想定して書かなければならない、ということである。
 およそ文芸たるものは、読者のために書かれるものであって、作家の独善では成立しえない。読まれてこその文芸である。ツイッターで、多くの方に読んでいただいてこその、私の俳句である。
 私の俳句は、修行中の試作品ではあるが、だからと言って読者にゆるしてもらえるものではない、と自覚している。私自身の大きなテーマである「日本語を学ぶ」ということ、その一端に俳句と短歌の勉強があるのだが、真剣に取り組まなければ意味がない。(短歌については、項を改めて執筆いたします。)
 たぶん私が俳句を詠んでいるのではなくて、遠州の自然が、私の獲得した言語能力をもちいて、俳句というかたちで表れているのだと思う。私は楽器でしかない。
 私の獲得した言語能力とは、語彙と文法のことをさすのであるが、それは日本語として学んだ、自然科学、人文・社会科学などの、大学で教養として学ぶ程度の基礎的な学術用語と、それを用いる初歩的な方法などを包括的に含んでいる。現代の大学教育を受けた私の視点は、近世の俳人たちの視点とは異なるものであろう。私は20世紀と21世紀しか見たことはないし、近世の俳人たちは、17世紀や18世紀しか見たことがない。私と彼らとの共通点は、同じ日本列島の自然のなかに生まれたこと、育ったことである。
 現代の私と近世の俳人たちは、日本列島の自然環境を共有している。自然科学的なレベルで対象を共有しているとするなら、人文科学的なレベルでは、漢字や仮名などで構成される日本語というものを、対象を記述する手段として受け継いでいる。特に漢字について言うなら、古代中国から受け継いでいる。
 古代中国の詩人たちとは、照葉樹林の繁る自然環境を共有している。まったくの同一ではなく、些細な差異は存在するであろうが、古代中国は日本の隣国であり、その自然環境には共通するものがある。ここで私は「花鳥風月」という言葉を、あらためて認識する。それは長い長い自然史を経て形成された、動物や植物、地球や宇宙のあり方である。
 人間として、その全感覚を通じて自然と向き合うということ。極めて凡庸な姿勢であると自覚しながらも、この一身を遠州の自然のなかに投げ出すということ。それしかできないのであるし、それすらもうまくできていないのかも知れない。