ソメイヨシノ

Cherry Blossom

 あちらこちらで桜を見かけるようになった。ソメイヨシノが多い。
 ひとの名前のような、この花の名前は、小学生にも覚えやすい。ひとくちに桜(サクラ)と言うが、私たちが身近で目にするものは園芸品種が多く、ソメイヨシノは、その代表的なものである。種子でふえることができず、ひとの手によって広められることでも有名だ。とにかく、ひととの縁の深い植物である。
 園芸の盛んな土地柄のせいか、遠州では季節の花を見るのに事欠かない。ぐるりと町の中を歩くだけでも、多くの家庭で、花木や草花を育てている。桜のような本格的な高木であれば、公園や街路樹に植えられている。住民の花を見る目も肥えているので、管理の悪い植栽などは、陰で密かに嗤われていたりする。下手な造園は、かえって恥をさらしているようなものである。
 少し郊外に出れば、菜の花畑も、里山の新芽もある。駐車場のある公園も多いので、自動車で行って、ふらふらと歩いてみるのも、また一興である。
 名前の判らない植物があれば、よく観察して、特徴を憶えておく。時間に余裕のあるときに、図鑑等で調べればよい。とにかく実物をよく見ておくことがコツで、植物図鑑などは後の確認である。だいたい、図鑑などというものは不完全なものが多く、特に最近の路傍の草花には、新しい帰化植物が多いので、図鑑で調べても種を同定できないことが多い。そんなときは、そのままにしておく。強迫的に種を調べ上げる必要はない。
 コケ植物などは、和名の付いていないものもたくさんある。学名を掲げて解説している図鑑の値段は高いが、図書館等へ行って調べることもできる。ウェブは、テキストの検索には強いが、画像の検索には難しい。また、画像も不完全なもので、実物を見た実感と、解説の文章とが合致しているかが、もっとも腑に落ちる解決となる。
 わからないものでも、見て記憶しておけば、なにかのおりに知ることになる。花や木に関して自慢話をする人がいたら、その人に訊いてみるという手段もある。相手の化けの皮が剥がれることもあるが、公衆の面前でなければ、逆恨みを買うまでには至らない。本当に知っている人は、親切に教えてくれるものである。
 調べてまで教えてくれる律儀な人もいるが、図に乗って、その方に負担をかけてはならない。相手の貴重な時間をいただくことに対して、お礼をする覚悟がなければいけない。基本的には、自分で調べるものであり、そうしてゆかなければ、自分の理解も深まらない。学問は、すべて同じである。
 病院から帰宅した老父が、私の母校である県立高校の、桜が綺麗であることを言った。私も自動車で外出して、方々で桜の花の開きつつあることを自分の目で確認している。ある公園で、写真を撮影した。老母に見せるためである。
 老母は、歩けないというわけではない。むしろ、いまだにオンボロの軽自動車から降りられない老父よりも、積極的に出歩いている。老父は、近所のコンビニエンス・ストアに行くのにさえ、軽自動車を使う無精者である。脚が痛い、腰が痛いと言っては、医者通いをしている。「歩かないから、筋肉が衰えるのだ」と私は言うのだが、いっそ歩こうとしない。
 歩いた方が、桜が綺麗に見える。老母は、そのことを知っている。

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御神鶏

Cock

 見付天神では、幾羽もの立派な御神鶏が飼育されている。赤色野鶏の系統のようだが、様々な種類がいて、混血も進んでいるであろうから、詳細には判らない。すべて地鶏(じどり)の類だと思う。ただ、烏骨鶏が判るくらいである。
 伊藤若冲の傑作「動植綵絵 群鶏図」を現実にしたものと言っても良いかもしれない。桶ヶ谷沼が、生きた鴨の図鑑であるなら、見付天神の御神鶏たちは、生きた鶏の図鑑である。人類が家禽化した動物であるから、人類が責任を持って面倒を見るべきなのであろう。充分な餌を与え、安心な塒(ねぐら)を与える。雌雄を共にさせて、繁殖を助ける。むしろ人類が、終生お世話をするという感覚である。
 このように、飼育されている動物を観ることも、私には面白い。
 趣味で野鳥を観るようになってから、私は鶏肉を食べられなくなってしまった。以前は「鴨せいろ」も「フライド・チキン」もいけたのだが、現在では、食べられない。食べようという気すら起らない。食べなければならぬ立場になることもない。
 元来、私の家庭では、食肉の料理というものをすることが少なかった。私の父は、鮮魚の料理が好きだ。毎晩、刺身で日本酒を飲む。私の母も、魚介類の料理が得意である。
 子供の頃から、私は動物が好きであった。小学校の頃に、見付の町の小さな書店で購入した、子供用の図鑑が、現在も手元にある。「植物」「昆虫」「魚貝」「鳥類」「動物」の五冊が一式になったものだ。これらは、私が自分の小遣いを貯めて買ったものである。
 子供の頃は、両親が動物を飼ってくれもした。金魚、小鳥、伝書鳩たち。金魚の他は、いずれも呉れる人がいて、貰ってきたものである。私の父は建築屋なので、鳩小屋などは器用に作ってしまう。川魚、亀、ザリガニなどは、自分で捕らえてきて、水槽で飼育した。いずれも短い命のものたちであった。逃してしまったものもある。農家ほどの余裕はないので、鶏を飼ったことはない。
 犬は、飼ったことがある。最初の犬は、私が小学生の頃、近所で生まれた犬を頂いたものだ。黒い雌の雑種犬で、仔犬まで産んでくれた可愛い犬である。だが、なにかの病気で吐血して亡くなってしまった。
 すると代わりの犬を、直ぐに父が知合いから貰い受けてくれた。今度は、雄の柴犬で、元気の良い犬である。余りに元気が良いので、時にはリードを外して走らせることもあった。小学六年生のときの、自由研究の題材にもした。しかし、私が中学にあがり、自分でも予想していなかったほどに生活が忙しくなって、充分に散歩をさせる余裕もなくなった頃に、他人を噛んで処分された。それ以来、犬を飼うことはない。
 私は、学校の勉強に集中し、生き物を顧みることは少なくなった。進学や就職で忙しくなると、ますます時間がなくなった。その状態は現在でも、基本的には変わらない。
 ある冬の日、仕事に疲れた昼休みに、散歩に訪れた公園で、野鳥を観るようになってから、自然のものを、わが友とするようになった。野鳥、昆虫、植物である。手間もいらぬ。費用もかからぬ。ただ、観ているだけでよいのだから、気楽なものである。
 ちなみに、見付天神では、御神犬も飼育されている。霊犬悉平太郎伝説にちなんでのことなのだが、なんということのない一匹の老犬が、鎖につながれているだけというのが、かえって面白い。私は、行く度に頭を撫でてやる。掌が脂で臭くなる。