読者について

kawazu zakura

 私が、はじめて俳句を詠んだのは 2009年10月29日(木曜日)、ツイッターを始めて九日目の朝のことである。「勉強開始」と書くだけでは芸がないと思い、趣味の自然観察から題材をあつめて、一日一句をツイートすることにした。
 ツイッターには、フォロワーという読者が存在する。どんなツイートをしても自由なのであるが、できればフォロワーの方に喜んでいただきたい。読者を楽しませるツイートをすることが、当時の私の理想であった。この思いは現在も変わっていない。
 読者を楽しませたい、という気持が先行して、俳句の勉強は後になった。それでも、2010年01月中旬頃、ツイッターで、日本語学者の林義雄先生からフォローをいただき、毎朝「今日の季語」を学習する機会を得ることができた。先生には感謝の言葉しかない。私は、日本語を学ぶという大きな目標のもとで、短歌や俳句を創作するようになった。
 日本語を学びながら考えていることは、少なくとも日本語という言語を共有する読者との間に、良好な関係を築くことができないものか、ということである。「日本語学」の成果による共通の認識を基盤として、高校・大学教養レベルで、読者に理解の得られる文章を書くことができれば、ということだ。私自身、高校レベルの「日本語」の知識しかなく、社会人になり、ツイッターで短歌や俳句を詠むようになって、あらためて高校での古文漢文を復習しなおした者である。特に専門的な教育を受けているわけではない。
 どちらかと言えば、現在の私の志向は「日本語」にあり、「日本文学」に関する認識は薄いのかも知れない。しかし、古典文学としての「和歌」や、その現代的な形態である「短歌」や「俳句」については、それらが基本的には文語文法で創作され読解されるという点において、関心を抱いている。高校時代に暗記するまで勉強したことが、現在の自分にとって、文学的な表現手段にもなりうるということが、興味深い。
 もちろん、私は現代人であるから、実務的な文章は、口語・現代仮名遣いで書いている。文学的な散文にしても、その事情は変わらない。これらは、同時代の読者の便宜を考えてのことであり、読者の保持している語彙や文法についての認識を予想しての営為である。
 しかし、「短歌」や「俳句」を詠む際には、文語・歴史的仮名遣いを原則として試みている。こちらは、私と同様に、高校で文語文法を学習した方を読者として想定しているからである。古語や漢語については、高校レベルの辞書や参考書に記載されているか、を準拠とし、そこに見出せないものは使用しないこととしている。また、口語的表現に必然性のある場合には、口語をつかうことに躊躇しない。ただし、歴史的仮名遣いについては統一をこころがけており、丸谷才一「完本 日本語のために」新潮文庫 2011 などの著作を参考に、できるだけ、現代の読者に負担をかけない表記を探究している。
 現在、短歌や俳句を詠むことの必要から、文語文法を思い出すことのできた私は、あらためて、古代中国の漢詩や、上代、中古、中世の和歌の読者になることもできるように感じている。近世以降の俳諧もまた、歴史的な観点から読めばいいと考えている。(ツイッターで、私が俳諧における文語文法を「誤用」だと指摘したかのように誤解されているようなので念の為。) 
 私のように、大学受験のために、必然的に古文漢文を学ばなくてはならなかった方は、決して少なくないと思う。日本語における語彙と文法という共通の認識が基盤としてあるから、私たちは、読者にも、作家にもなる可能性がある。私も、いまだ勉強中の身ではあるが、文学的な散文を書き、短歌や俳句を詠む。その方針のようなものが固まりはじめてきたので、読者の便宜のために、ここに記しておく。

広告