日本語を学ぶ 其之三 暴力について

via Wikipedia

 岩波文庫版のマックス・ヴェーバー(脇圭平訳)「職業としての政治」は、読みやすい、とても薄い本である。政治に関心のある者であれば、誰もが読んでいると思っていた書物だ。
 内閣官房長官が、自衛隊について言及する際に、「暴力」という言葉で表現したとの報道が、テレビや新聞などであり、ウェブでも、それを問題視するような発言があった。
 しかし、テレビや新聞などの既存メディアと、ウェブとの大いなる相違点は、「暴力」という翻訳語についての感覚である。すぐに、それはマックス・ヴェーバーの有名な著作の中で使用された言葉であることの指摘があった。ドイツ語は読めない私ではあるが、ドイツ語を読めないからこそ、日本語で「職業としての政治」を読んでいる。ヴァルター・ベンヤミンに「暴力批判論」という論考もあり、ドイツ語圏に特異な表現であると考えていた。「ゲバルト(Gewalt )」という日本語化された言葉さえある。
 私には違和感のない言葉であったが、「暴力」という漢語の強さに反発した人も多いようだ。確かに、古代中国由来の言葉として「暴力」をとらえれば、それはマックス・ヴェーバーらの書物で読むドイツ語由来の表現とは、違う感覚がある。内閣官房長官が国会で答弁する際にふさわしくない表現をした、という意見は、皆が皆、政治学の本を読んでいるわけではないのだから、という理由において、正当だと言えるのかも知れない。だが、それではメディアの受け手の知性を低く見ているようにも感じる。
 日本語の勉強が大切だと思うのは、こんな時である。コミュニケーション能力というものは、より多くの言葉を知る者、より豊富な知識を持つものが、それについて未熟な者に対して、その意志や感情に配慮して、いかに適切な言葉を選べるか、ということでもあるかと思う。そう考えると、内閣官房長官は、学識のない人々に古代中国由来の言葉として解釈される可能性のある「暴力」という言葉を、使うべきではなかった、ということに気が付く。彼が、自分の落ち度について謝罪したことは、現実として、正しい選択になる。
 英語やフランス語、ドイツ語などの原書を読み、それらの翻訳書を参考にして学問をした者も、あらためて日本社会の中でコミュニケーションをするためには、日本語を学び直さなければならない。古語や漢語にまでさかのぼり、現代日本の社会人たちが「普通の日本語」として感覚している言葉について、細密に調べ直さなければならない。自然科学や人文・社会科学の世界に入り浸っていると、その辺りの感覚が難しくなる。
 今回のことは、私にとっても良い勉強になった。私も知らないうちに、誰かに強い言葉をぶつけていた可能性がある。自戒したい。

 (2010年11月23日、追記。)
 ジョルジュ・ソレル(今村仁司、塚原史訳)「暴力論」岩波文庫という本もありました。原書の初版は1908 年です。なお、マックス・ヴェーバー「職業としての政治」は1919 年。ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」は1921 年です。

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コハクチョウ 其之二

Bewick's Swan

 例年のように、地方紙に白鳥飛来の記事が載ると、やはり、それを見に行かずにはいられなくなる。自然界からの賜物は、素直に受けとめるべきで、理屈をこねる前に行動することだ。
 休日なので先客がいる。鳥を観るような人に悪い人はいない。会釈をして、なにも余計なことは言わず、水面のほうに視線を走らせるだけで、現在、コハクチョウがどこにいるのかを教えてくれる。お互いにフィールドスコープやら望遠レンズやらを持参しているので、少ない言葉で会話が成立するのだ。ありがたい先輩である。
 その方は、定位置を決めてしまわれたようだ。私は、まだ移動のできる格好をしていたので、謝礼の言葉を口にした後、その方から、お教えいただいた辺りに、自分なりの見当をつけて歩き出した。私は、この周辺の地理については知悉している。
 さほど歩かぬ内に、白い大きな鳥の姿が見えた。スニーカーでゆっくり近付くが、音や震動に敏感な小鳥たちは、私が彼らの存在を認識する前に、飛び立ってしまう。むしろ、飛び立つから、そこに小鳥のいたことが判るという感じである。この感覚は、小さなコオロギ類を探すときのものに近い。草原を足で掻き分けて、コオロギが飛び出してくるところを捕獲する。居場所はわからなくとも、逃げ出す姿で、その存在が認識できるのだ。
 コハクチョウの姿を確認し、静かに近付く。すると、今度は水面にいたコガモたちが飛び立ち始めた。朝の早い時間で、ヒトの姿は少ない。本日に於ける人類未踏の地に、足を踏み入れているのである。
 コハクチョウは落ち着いている。平然として、朝の食事を楽しんでいる。人間には慣れてしまっているのだろう。望遠レンズやらフィールドスコープやらを持った人間が、自分に危害を与えるものではないことを、既に学習しているのではなかろうか。水中に頭まで潜らせて、マコモの根を引きぬいている。肉眼でも充分に観察のできる距離である。
 私の視力は、左右とも裸眼で 2.0 である。もっとも、最近は正確に検査してはいないのであるが、特に落ちた感じもない。社会人になってからも長時間の勉強をするので、文章を読み書きする時間は多いはずなのだが、視力の落ちる気配もない。もっと勉強をしなければならないのかも知れない。
 今までは、見て帰るだけだった自然観察も、ブログを書くようになってからは、写真を撮るようになった。本当は、写真撮影などの道楽に時間と資金をつぎ込めるような身分ではないのであるが、見てくださる方がいると思うと、手持ちの機材で最高の写真をと、気負わずにはいられない。
 野鳥の生態については、いささかの知識があると自負してはいるが、写真撮影は始めたばかりで、正直なところ、未熟である。カメラやレンズを買う余裕もないし、それらを弄る時間もない。そんな言い訳ばかり書いているのも、それを克服する術を学ばなければならないという強い自責の念があるからだ。貧しい者は、貧しいなりに知恵を絞るのである。
 コハクチョウは泰然として自由である。私のほうが、世俗に縛られており、緊張している。どちらが生物として優位かと言えば、それは勿論、コハクチョウではないか。地球は、植物や昆虫や鳥類の惑星であり、人類は小賢しい添え物だと考えてみる。その方が筋が通る。
 コハクチョウは、群生するマコモの奥へ進んでゆく。もう、写真のことはあきらめて、お帰りなさいということらしい。太陽も、次第にその位置をあげてきた。

日本語を学ぶ 其之二

ensyu nada


 私が、なぜフランス語を勉強したのかと言えば、それは大学を卒業するためであった。第二外国語は必修科目であり、これをクリアしないことには、大学を卒業できないのである。大学を卒業しなければ、就職などない。
 英語にも同じことが言えるかも知れない。どんな専攻であれ、英語ができずに入学できる大学など、ないのではなかろうか。私の在籍した高校は、大学に進学することが当り前のような学校で、英語を勉強しなければ自分に未来はないと思わせるのに充分な環境であった。良師益友にも恵まれたように思う。
 では、日本語はどうであろうか。現代文については、普通に読書を楽しむことで、受験対策にもなりそうだ。しかし、古文と漢文には特別な勉強が必要であろう。古文と漢文は、21世紀の現在になっても、センター試験の必修科目から外される気配はない。やはり勉強しないことには、大学には進学できないのである。
 私は既に社会人であるから、もう大学入試のことなど真剣に考えなくてもいいようなものだが、かえって社会人であるからこそ、現代の生活とは掛け離れたような古文と漢文の学習を、限られた短い時間しかない高校生たちに強いることが気になっている。
 現在、日本人が高校や大学で学ぶ、自然科学や人文・社会科学の根源は、西欧にあると言って過言ではなかろう。数学や物理であれば、デカルトやニュートン。倫理や政治経済であれば、ホッブズ、ロック、ルソーといった名前が直ぐにあがる。原書は、英語やフランス語で書かれたものである。
 日本語に翻訳されたものではあるが、日本で高等教育を受けた人間は、必然的に西欧を起源とする思考の道具を使っている。大学を卒業した後も、なにを考えるのであれ、そのことを自覚したほうが、より自分の考えていることが明晰になる。無論、他者の考え方を理解するためにも、この前提は有効である。すなわち、コミュニケーションの基盤として西欧の思想は機能しており、この構造は、英語圏や仏語圏であれば、すでに共有されているものでもある。言葉の細かいニュアンスさえ克服できれば、かなり多くの発信源から情報を受信することができるように思う。
 私見だが、高等教育は、大学の教養科目あたりに、ひとつの到達点がある。高校で大学入試のためにする勉強に、不完全な感じが否めないのは、そのせいだ。進学校が、その生徒を大学に入れるのを当然としていることも、そのためだと思う。
 これは、実際に勉強をしてみると実感できる。自分が専門とする学問的領域以外の学問についてでも、このあたりまでの知識があれば、専門家は質問の拙さを許してくれるのではないか。そのような可能性のあること自体が、社会人になっても、教養科目の勉強を継続してゆくことへの、私の動機になっている。
 さて。大学を卒業した者も、いずれは現実の日本社会に戻らなければならない。それまでの、夢の中で彷徨っていたような、近代西欧を起源とする知的世界から、現実の、渾沌たるアジア世界の一部である日本社会の中に、否応なく組み込まれてゆくことになる。
 ときに懐かしく、理想的な民主主義の近代市民社会を思いながらも、血統主義の根強い旧弊な日本社会で生きてゆかなければならない。日本の法律は日本語で書かれている。そこで生き抜いてゆくためには、日本語を改めて学び直す必要がある。