スズムシ 其之十四

suzumushi

 今年のスズムシも成虫になり、無事に産卵期を迎えることができた。
 なかなか飼育に時間を割くことのできない中、次世代を残すことに傾注するため、盆の明けた頃に未だ幼虫の状態であるものは、すべて裏庭に放した。最近は裏庭をみる時間もなく、大きな草は抜いたものの小さな草は生えるがままにしてある。

 室内で飼育しているスズムシは人為的な淘汰による品種改良を試みており、触覚が長くて左右均等であるもの、尾角や産卵管の位置が整っているもの、全体として美しい感じのするもののみを成虫舎に移し、卵を採取するようにしている。幾世代かを経て、だいぶ理想に近いものが育つようになった。それでも脱皮の失敗や触覚のちぎれなどの事故は生じるもので、そのような弱い個体も裏庭に放すようにしている。
 自然に生えた苔類や草本などを、見苦しくなく適度に整備した裏庭が、スズムシやコオロギ類の永遠の棲家になればと思う。裏庭で、私が手をかけずとも生活環の持続してくれることが理想である。

 飼育観察もまた自然観察に含まれるというが、拙宅のスズムシは亡くなった伯母から引き継いだものなので、ことによると平安期から家畜化されていたものの末裔かも知れない。ひとに懐いていることに疑いはなく、掃除や給餌の際に空間を開放した状態にしても、勢いよく逃げる気配もない。
 たまに好奇心からか飼育舎から出てくるものもあるが、私が手を差し伸べるとそのうえに乗ってしまう。野外でスズムシを捕獲することは難しいもので、虫の方から手に乗ってくるということなど先ずあり得ない。環境が異なるので単純な比較はできないが、家畜化されたスズムシは大人しい性格の遺伝子を受け継いでいるのではないかと思う。

 スズムシは毎夜、尽きることなくその美しい音色を私に施してくれる。

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ナナフシ

phasmids

 台風の夜の明けた朝のことである。
 就寝していた私の腕に昆虫がしがみついている。その触感や形態と色彩から「カマキリの幼虫かな」と思い、もう片方の腕でやんわりと掴みあげてみると、ナナフシの幼虫である。

 屋外からナナフシの紛れ込んだ理由は定かではないが、私は小学生の頃にも屋内でナナフシを観察する経験をしている。そのときは成虫のナナフシで、緑色で大きく、自分で購入した図鑑で昆虫の名前を調べる経験ができて、とても嬉しかったことを覚えている。
 現在では私も成人し、ナナフシの食草がエノキやサクラなどであることも知っている。老母にサクラの木がないかを問うてみると、近隣の地蔵堂の地所に生えているという。歩いてさほどでもない距離ではあるが直ぐに外出することもできず、脱脂綿に水を含ませたものを与えて外出する機会を窺っていたが、もともと弱っていたこともあり、正午に確認したときには絶命していた。
 私には昆虫を標本にするという趣味はなく、蛋白質として他の生命の一部になることもまた生命の連続として意味のあることだと考えているので、裏庭に遺骸を置くことにした。

 昨年の父の葬儀後、その納骨の際に、私は墓の中に既に納めてあった骨壷を割った。
 それは亡くなった父の先妻のものである。骨壷をふたつ収めるには墓の中が狭かった。最初は父の先妻の骨壷を割らずに取り出そうとしたのだが、墓の口が狭くて取り出すことができなかった。
 神主から「割っても良いよ」と助言をもらい、その場にあった大きな石で骨壷を割り、中に入っていた生々しい白骨を土の上に置いた。そして、新たに父の遺骨を白い布でくるんで、これも土の上に置いた。
 父の先妻の亡くなったのは私の生まれる以前だから、その遺骨は骨壷の中で長い間その形状を保っていたことになる。現在の日本の法律では土葬も違法ではないが、火葬が多く、骨壷に入れられることが多いと思う。そのようにすると骨は他の生命の一部になることもなく、残るものなのだ。
 遺体や遺骨をどうするかは遺族の考えによるものであり、私の思想を押し付けるものでもないが、土に還すという意味では、私は父とその先妻を自然なかたちに解放したような気分になった。

 盆には迎え火を焚き、送り火を焚いた。台風による強風で燐寸による着火は難しく、何回も失敗を重ねた挙句に、辛抱強くすべての木材が炭になるまで燃やした。それには長い時間を費やした。
 そして台風の夜を迎え、その夜が明けたとき、私の腕にはナナフシがいた。ナナフシは台風の強風にとばされた挙句、私の着衣にしがみついて、屋内に入ったのかも知れない。

追記 作品の題名としてのわかりやすさを優先して「ナナフシ」としたが、種としてはタイワントビナナフシ Sipyloidea sipylus ではないかと考えている。

教育について 其之二

aubergine

 現代の経済社会に於いて、社会人は自分を教育する義務を負うと私は考えている。
 就職した会社が研修費を負担してくれるような終身雇用の甘い時代は過ぎさり、長期的でリスクの高い「教育投資」は労働者の責務となった。ひとは生涯に何度も教育を受けられるわけではないのだが、リカレント教育という美名のもと、経営者は労働者に教育費や教育投資の自己負担を強いている。
 社会人である自分を教育するためには、本来ならば優良な教育機関へ通学して講義を聴き、講師に質問できる環境が最良である。しかし、そのためには大都市圏に居住する必要がある。家庭の事情などにより地方に在住することを余儀なくされる者は自学自習せざるを得ない。

 勉強以前の課題として教育環境の整備を考えなくてはならない。
 勉強する空間については、まず騒音のない静謐な場所を確保することが必要である。机の広さを充分にとり、椅子の高さを適切に調整する。 テキストを読むのに充分な照度を電気スタンドで確保する。夏季の高温多湿や冬季の低音乾燥にも適応できるような空調管理のための設備としてエアコンを完備する。適切な時間管理のためにクロックとストップウォッチを用意する。問題集や模擬試験での自己採点の集計及び正答率の算出や、配点に応じた適正な時間配分の計算などのために電卓を準備する。想定される答案用紙と相性の良いボールペンあるいは鉛筆を探求し購入する。
 気持ちよく勉強できなければ知識を脳に入れることはできない。自分を教育する環境の整備すべてを自分でプロデュースすることが社会人には求められる。

 教材の選択は自学自習に於ける最大の課題である。
 試験の問題がテキストの内容から逸脱しないことを約束されているものは、そのテキストにある知識を覚えれば合格点が取れるのであるから、アプローチも簡単である。高校の中間・期末テストのようなもので、教科書から外れた知識を問うような問題はまずありえない。数学では応用力の試される問題も出題されるかも知れないが。
 社会人の受験する国家資格試験では、民間の事業者から販売されるテキストに記載されている内容が、本試験で出題される問題のすべてを網羅しているわけではないことも多い。特に法律科目では、数学や理科のように原則を押し通せるものばかりでもなく、多くの例外を含むものであるから、応用力では対処しきれない。条文や判例の文言までを正確に記憶しなければならず、その量は膨大で、受験勉強には長大な時間を要する。
 前者を完全教材による試験、後者を不完全教材による試験と呼ぼう。後者には「教材による限界」とでもいうべきものが存在する。なるべく「教材による限界」のない教材を選択することが、試験に合格するための条件であることは言うまでもない。

 マジメな若い社会人の向上心につけこんで利益を貪るような教育ビジネスの事業者も存在する。私は民事訴訟を提起して詐取された前払授業料を取り戻した経験がある。悪質な事業者や教材を見抜くこと、慎重に行動して被害を防ぎ、また被害を受けたときは加害者に報復して原状回復に努めることもまた社会人の責務であろう。

メディアについて 其之二

calla

 勉強の合間の「息抜き」としてメディアに接している。
 テレビは飲食しながら視聴することができるので、時間のない私のような人間にはありがたい。原則として録画で視聴しているが、録画したものも視聴したら消去してしまうので、覚えておきたい情報についてはメモをとるようにしている。新聞を読むのは休憩時間が多い。保存しておきたい記事の切り抜きをすることもある。なお、休憩時間に飲食する際には、パソコンは絶対に開かない。

 テレビを視聴することは専門分野以外の勉強という位置付けである。
 基本的には「政治・経済・社会に関する番組」及び「理科の選択科目(本年度は地学基礎)」を録画予約の対象としている。高校や大学の教養科目レベルの知識は、他者とコミュニケーションをとるための基礎的な話材である。
 家事に必要であるグルメ・料理番組や、保健・医療に関する番組などを録画して視聴することもある。栄養学や医学に関する情報は、疑似科学の巣窟と言っても過言ではないほどであるが、高校時代に履修した理科(物理・化学・生物)と合致するかが判断の基準になるように思う。
 コミュニケーションの可能性を拡げるため、語学番組(本年度前期は休学)を視聴したり、映画やテレビドラマなどを視聴することもある。地方では舞台芸術を鑑賞することが難しい。劇場での公演を撮影したものを視聴することもできるが、やはりあらかじめ再生されるものとして制作された映像作品が鑑賞には適している。
 時々、テレビそのものを研究する意図をもってランダムに視聴することもある。静岡県にはテレビ東京の系列局がない。地上波で東京都と同じ環境になることを望んでいる。

 G20 大阪サミット は 28 日正午の NHK ニュースをライブで視聴することができた。安倍晋三首相がデジタル経済について言及した後、习近平国家主席(中国)、ユンケル委員長( EU )、トランプ大統領(アメリカ)、アゼべド事務局長( WTO )の順で発言された。デジタル化の進む世界経済に対応して、遅れをとらない国際的なルールづくりを進めることが論点であるようだ。
 翌 29 日は NHK ニュースで G20 大阪サミットに関するものをすべて朝に録画予約しておいて、夜にまとめて視聴した。信頼性に基づく自由なデータ流通、海洋プラスチックごみ問題など、これからの国際経済社会を展望するためのキーワードを得ることができた。新しい論点を早い時期に知るだけでも、テレビを視聴することには意義がある。
 会場では首脳同士で会話をしているシーンもよく目にした。どんな言語でコミュニケーションしているのかを知りたい。果たして日本の政治家に語学力は足りているのであろうか。

追記 : 习近平 の拼音は Xí Jìnpíng (シー・ジンピン)である。ドナルドは彼をファースト・ネームの「ジンピン」と呼んだのであろうか。

教育について

okegayanuma

 新聞やテレビなどのメディアがなぜ存在するのかという問いに対する、もうひとつの答えは「家庭教育の教材として」というものである。
 新聞を読む行為は単純に読解力の基礎的な訓練になるし、テキストでは表現しきれない、例えば外国語教育に於ける「発音・リスニング」や、理科教育に於ける自然現象の映像による表現などは、テレビならではのものではなかろうか。Newspaper in Education や Educational TV に私は期待している。

 教育という言葉は「上から目線」のようで気恥ずかしい。私も勉強中の人間であり、むしろ「勉強法」という方が自分の気持には合致する。児童や生徒は勉強法を共有する仲間であり、上下関係などあるはずもなく、こちらが教えていただく立場にもなりうることである。
 ひとから質問されて解答解説しなければならない役割を担うこともあり、そのようなときには間違いのないよう注意義務を鋭敏にして発言をするが、やはりひとに答えるために準備をしておくということは、自分にとっても最良の勉強法であるということを痛感している。
 数学、物理、化学、生物、地学の各科目について、センター試験レベルまでを備えておき、小学生からの質問に応えるというのが現在の私のやり方であるが、児童に主体性をもたせ、対話的に教育を進めてゆくためには、そのくらいの準備は当然であるし、またどんな児童にも将来の利益を保証するという点において、高校で学習する内容を早めに教えておくことには意味があるのではなかろうか。
 自然観察会の現場では児童が主役になる。その児童が「虫がどこにいるか」を発見できれば、児童を大人よりも優位な立場に置くことができる。児童の自尊心を大切にし、児童に対して発見の礼を言うことが、まずは大人の仕事であるように私は思う。双翅目だの膜翅目だの節足動物だの言い始める前に、児童をひととして尊ぶことが大切である。理科の成績に直結する知識の伝授はそれからでも遅くはない。
 最終的には楽しく時間を過ごせれば良い。「あの時間は楽しかったなあ」という想い出にしていただければ、初等教育の使命は果たせるように私は思う。「生きていて楽しい」と思えることが、その後の勉強のモチベーションにつながるのではなかろうか。

 児童や生徒は教材の限界を超えることができない。新聞やテレビなどのメディアに於いては、家庭教育に於ける教材であるという使命を再認識し、間違いのない信頼のおける教材を提供していただけるよう願ってやまない。

メディアについて

Japanese wisteria

 新聞やテレビなどのメディアがなぜ存在するのかを問われたとき、私は選挙に於いて投票するためだと答えている。
 政策や政党などに関する狭義の政治記事のみでなく、現代の社会がどのような状況にあるのかを総体的にとらえる視野を得るために、メディアは欠かすことのできないものである。政党や政治家を投票によって評価する以前に、私たちは社会の全体像をまず把握しなければならない。
 具体的な投票行動に於いては、政治家個人を良く知ることも重要になる。見識や人柄などはひとを判断する際の基本であり、その事情は選挙に於いても変わらない。

「統一地方選挙の前半日程が終了した。県議選では、定数が1つ増えた藤枝市選挙区は、3議席に5人が挑む白熱した選挙戦が繰り広げられた。私もかねてより注目し、告示前からじっくりと検討して投票したいと考えていた。
 しかし、情報の少なさにただただ驚いた。情報源といえば新聞、選挙公報、ネットだが、ネットをくまなく探すほどの余裕はない。となれば新聞が頼りだが、個々の候補者についての情報はいささか少ない。最後に選挙公報に期待したが、これまた皆、当たり障りのないことしか書かれておらず、全く参考にならなかった。かといって、選挙カーの名前の連呼や知人からの電話に心が動くはずもなく、途方に暮れ、何とか投票はしたが、いまだに不本意だった気持ちは拭えない。
 選挙のたびに低い投票率が話題になるが、この程度の情報量しかないのであれば、誠実な人ほど投票できないのではないか。しっかりと自分で判断し、責任の持てる投票をしたい」
(静岡新聞 2019年04月18日 朝刊。読者のページ。藤枝市・小林健さん)

 選挙権を行使する前の段階として、その意思を決定するための情報は必須の条件なのだが、その情報を伝えるべきメディアが、特に地方政治では機能していない。
 NHK のローカルニュースはお花畑の紹介ばかりで、老父が亡くなったときに解約したいメディアであった(認知症の老父はテレビの画面ですら理解できなかったが、環境の変化による精神への影響を考えて眺めさせておいた。認知症の患者というのは精神障害者なのである)。
 老母が観たいのは民間放送の番組なのだが、そのためには NHK に受信料を支払わなければならない。NHK のローカルニュースでは、イベントガイドや、地元企業の商品の PR が主な話題で、その実態は、視聴者から徴収した受信料の、特定の事業者への利益供与である。社会的な問題について判断する材料となるようなニュースは数えるほどしかない。
 公共政策に関する詳細や、それに対する首長や議員の意見、その背景にある経済や社会の状況など、伝えるべきことはいくらでもあるように思うのだが、狭い世界の中で、メディアが行政や議会に対して気を使いすぎているようにも思える。

 地方政治で投票率の低下する原因はメディアの機能不全にあると私も考えている。若者へ参政権を「啓発」したいのであるなら、メディアこそ認識を改めるべきではないのか。

春愁 其之四

ruffle lichens

 中西宏明。1946年3月14日生まれ。神奈川県横浜市出身。東京都立小山台高等学校卒業、東京大学工学部電気工学科卒業、スタンフォード大学大学院コンピュータエンジニアリング学修士課程修了。

 彼の現住所は(ウェブで手軽に調べられるほどには)明らかにされてはいないが、おそらくは東京都か横浜市か、あるいはその周辺のいずれかの地域ではなかろうか。ちなみに彼が取締役会長兼代表執行役を務める株式会社日立製作所は東京都千代田区丸の内一丁目6番6号に所在する。いずれも Urgent Protective action planning Zone : 緊急防護措置を準備する区域 でないことは明らかである。もちろん Precautionary Action Zone : 予防的防護措置を準備する区域 でもない。
 1946年3月14日生まれということは、浜岡原子力発電所の建設計画が始められていた1967年1月には20歳ということになる。東京大学工学部電気工学科の学生であったと推測されるが、すでに参政権のある身分であり、2019年3月現在では、1967年1月に参政権を得ていた人物というのは、特権的な人物であったようにも思える。なぜなら彼より年少の人間は、浜岡原子力発電所の建設計画に反対する権能を、そもそも持ち得ないからである。

 私は、浜岡原子力発電所の UPZ の住民であり、1967年1月には参政権のなかった人間である。それゆえのポジション・トークであることを宣言してこれからの叙述を継続する。そうでなくてはアンフェアなように思えるからである。

 2011年3月に福島第一原子力発電所の事故が起こるまで、私は「原発」について無知であった。世界や日本にどのくらいの原子力発電所があるかも、その保安管理の状況についても、なにも知らずにいた。もちろん「原子と原子核」については物理学で学習しており、光電効果やプランク定数、ド・ブロイやアインシュタインについては知識があったが「日本の原発」についてはなにも理解していなかった。しかし 2011年3月以降は、急速に理解を深めざるを得なくなった。
 いまでは福島第1原発2号機だけで約 237 t のデブリがあることまで知っている。圧力容器内に約 94 t しかなかった燃料に金属やコンクリートなどが溶解して混合したために、デブリが量を増したことも理解している。固着して硬いデブリをいかに取り除くか。その機器の開発から始めなければならず、その作業が相当に困難であろうことも想像できる。
 中西宏明氏は「原発と原爆が頭の中で結びつき、分離が難しい」との認識を示されたが、私にとってはむしろ「原発」よりも「原爆」のことの方がわからない。このあたりはジェネレーション・ギャップかとも思うが、原爆について知識の豊富なひとを私の周囲に探すことは難しい。
 広島県や長崎県とともに、静岡県は被曝を経験した地域とも言えるが、それは焼津漁港を母港とする遠洋マグロ漁業に於いて生起した事件であり、多くの静岡県民は原爆についての直接的な経験には乏しいのである。

「理解を求めていく」「理解をいただくしかない」と中西宏明氏や水野明久氏は言うが、それは「おまえらバカだから理解できねえんだよ」と言っているようにも聞こえ、侮辱されているようにも受けとめられる。PAZ や UPZ に住むような人間はバカであるというような含意がその発言にはある。そのように解釈すれば中西宏明氏の認識や発言は充分に「理解できる」ものである。
 中部電力株式会社、一般社団法人日本経済団体連合会、全国電力関連産業労働組合総連合、日本国政府と、原発について「理解を求める」勢力は巨大であり強力である。その勢力に抗うことがいかに「バカである」かが「理解できない」ことを中西宏明氏は述べているのかも知れない。株式会社や経済団体、労働団体が利益を追求することを目的とする集団であり、日本国政府が経済発展のために原子力政策を推進する立場にあることも、私は「理解できる」。
 浜岡原子力発電所の PAZ と UPZ には約 840,000 人が居住している。日本には約 120,000,000 人が居住しているので、そのうち約 0.7%が居住していることになる。たとえ浜岡原子力発電所の事故によって PAZ や UPZ の住民が故郷を失うような事態になろうとも、東京都か横浜市かにお住まいであろう中西宏明氏には、なんの実害もなく、なんの痛痒も感じることもないであろうことも、私は「理解できる」。

 中西宏明氏には、1967年1月に旧浜岡町で参政権を得ていた住民と、2019年3月現在に浜岡原子力発電所の PAZ や UPZ で生活を営んでいる住民が、同一であるとは限らないことを理解していただければと思う。