日本語を学ぶ 其之七 漢文について

ensyu nada

 漢文はセンター試験の必修科目であるから、これを逃れることはできない。大学に進学しなければ就職などない者であるなら、これを勉強しなければならない。
 やはり、センター試験を仮想して日本語の学習を構想したほうが良さそうだ。すでに社会人であり、古代中国の文物に親しむような余裕もない私ではあるが、「漢文」を克服しなければ大学入試を突破できない全国の高校生たちには、深く同情の意を寄せるものである。私自身も高校生であったし、大学受験も経験した。そのときの強い記憶は、ときどきフラッシュバックして私を苦しめる。試験を控えて暗記暗唱したものが、まだ脳内に残存していて、わけもわからず甦ってくる。
 最近は、あらためて高校の参考書などを読み、脳内の記憶を整理しなおしている。現行の大学入試制度や、それに対応するための高校のカリキュラムなどは、私の経験したものと基本的にかわらないと思う。ゆえに、社会人である私が、高校での学習や受験勉強に関する愚考を披露しても、害にはならぬことと思い、この文章を書いている。
 漢文の学習には想像力が必要とされる。時間も空間も長大に離れている場所での出来事を理解しようというのであるから、当然のことである。
 漢文を学ぶための支えとして、「倫理」と「世界史」の古代中国に関する部分の記述を読むことが役に立つであろう、と予想を立てた。その予想は大方あたっていたが、さらに興味深いことに気がついた。同じ科目内の「日本の思想」や「仏教」などを学習することによって、「漢文」を理解する前提とも言える「古文」の学習の理解が、より深まるということである。
 例えば、明治時代の知識人が漢文を素養としていることについては、近世、江戸幕府の日本において儒学が官学であったことが大きい、と考えられる。平安時代の文学を探究するにあたっては、当時の仏教についての基礎知識があったほうがわかりやすい。鎌倉時代の新仏教なども、当時の中国から渡来している。このように、古代中国の儒学や仏教などが、日本ではハイカルチャーとして尊敬を受けていたからこそ、日本語において漢文や漢詩は特別の地位を占めるのである。
 倫理、世界史、国語とならべれば、それでセンター試験の一日目の科目になる。すなわち、この三科目は、総合的、横断的に学習することができる。もちろん、倫理や世界史については、西欧のものも学ばなければならない。だが、現代社会を生きるうえに於いては、むしろ、そちらのほうが主流である。英語を学ぶことも含め、西欧近代の市民社会思想を理解しない限り、現代の世界を生きてゆくことはできない。この事情は、現代社会、政治経済などの科目にも共通である。大学での教養科目や専門科目でも、西欧近代思想を基本的に理解していることが、学習の前提になると思う。
 私は、現代中国や朝鮮半島の教育制度について学識のある者ではないが、漢字文化圏において、古代中国のものを理解できる能力を持つ人々が日本列島に存在することは、悪いことではないと考えている。むしろ、学問や言論の自由に不安のある現代中国の代わりに、貴重な人類の遺産を護るつもりでいるくらいのほうが、よいのではなかろうか。

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