矢奈比賣神社(見付天神)

mitsuke tenjin

 急な坂道を上ると、鮮やかな朱色の鳥居が現れる。
 この鳥居を過ぎれば、後は平らな道となるのだが、ここに至るまでは「あと押し坂」と命名されるほどの、急な坂道である。年老いた親の「あとを押せ」という意味だ。
 私の老いた両親は、もう、この坂道を登ることが、辛くなってきている。坂の上にも駐車場があるので、そこまで軽自動車を運転して上ったり、あるいは、高低差のない裏参道を歩いて、神社に参拝したりしている。私は、両親から丈夫な身体をいただいている。特に、脚には自信がある。
 見付天神は、見付の町の氏神である。私の父や、その家族は氏子になる。
 私が、この町に来たのは、幼稚園に上がるべき年の正月のことだった。幼稚園は二年間なので、四歳と数ヶ月ということになる。それまでは東京の恵比寿にいた。都立広尾病院で出生し、現在の恵比寿一丁目にあるアパートで、零歳から四歳までを過ごした。
 私の母は、そのアパートを管理するような仕事を、大家から請負っていた。父は大工で、港区周辺を中心に、都内で働いていた。私が生まれた後に、父は建築士の資格を取得した。両親とも、遠州(遠江國)の出身であり、人に頼まれたこともあり、この町に住むことになった。
 東京から遠州に戻るについては、いろいろと理由があったようだが、そのうちのひとつが、私の健康を考えてのことらしい。東京にいた頃の私は、恵比寿一丁目にあるアパートと、恵比寿東公園との間の小路を、往復することが日々の運動であった。この小路は都立広尾病院にも通じているから、私は、誕生以来、この小路と公園のみを歩いていたことになる。
 それはそれで良い運動になったのだが、元気すぎるときの私は、アパートの狭い部屋の中で走りまわり、階下の人に、だいぶ迷惑をかけたとも聞いている。その割りに青瓢箪で、そのことは偶に故郷から上京してくる人にも言われて、両親も気にしていたらしい。
「世田谷にでも引っ越そうか」というときに、父の旧友から、遠州で建設業を起すので手伝ってほしいという話が来た。もともと両親とも遠州の出身で、親族も多くいるからということを主な理由に、遠州に戻ることになった。
 私が、この町に来たのは正月であったから、公立の幼稚園に入る機会を逃してしまい、その年の四月になっても、商店街を母と歩いていた。すると、そこで優しい人が、ある基督教系の私立幼稚園なら「まだ入れてくれるら」と教えてくれた。そこにはフランス人の神父がいた。両親が僅かな寄付を納めて、私は即座に、そこに入園させて貰った。
 新しい住居から、その幼稚園までは、かなりの距離があったが、私は二年間を歩いて通った。私の脚が特に丈夫なのは、そんな鍛錬もあってのことだと思う。
 見付の町を歩いて鍛えた両脚で、見付天神の急な坂道を上る。途中で振り返れば、見付の町並みが見える。私を育てた土地が、そこにある。
 恵比寿も、だいぶ再開発されたが、実は、まだ、私の歩いた小路は残っている。上京すると、私は、その場所を訪れる。母の記憶を聴き、自分の記憶を辿り、私は、自分が生まれた土地にいると、感じることができる。

シュロ

Chusan Palm

 一月一日の午後は、見付三社を歩いた。これは自分の趣味のようなもので、家事ではない。だが、私の家は神道でお祭りをするので、そんなことも影響しているのかも知れない。
 趣味と書いたのは、私は自然観察が好きだからだ。神社には大抵、心地よい自然が残っている。よく鎮守の森というが、神社の境内にある巨樹巨木や、様々な植栽、飼育されている動物なども楽しい。自然と共存するという感じが好い。
 見付三社とは、矢奈比賣神社(見付天神)、淡海國玉神社(遠江國総社)、天御子神社の三社をいう。
 見付三社の中で、最も有名なのは、矢奈比賣神社(見付天神)であろう。合祀されている菅原道真公の方が高名で、学業成就や受験合格の祈願をする人々が、遠方からも多く訪れる。この神社は、国の重要無形民俗文化財である見付天神裸祭で有名かも知れない。見付天神の境内には、伊勢神宮の遥拝殿もある。
 淡海國玉神社(遠江國総社)は、遠江國の神々をあわせた総社という偉い地位にある神社だが、境内に広い原っぱを持つ、子供に優しい神社だ。東海道見付宿の、ほぼ中央にあり、見付の人たちからは「中の宮」と呼ばれて親しまれている。
 天御子神社は、見付宿の本通りからは、少し離れた場所にある。境松という、まさに見付の地の境界にある神社だ。小さな神社であるが、裏に、ヤマモモの巨木がある。
 見付天神へは、元門(もとかど)から向かう。ここは東海道から見付天神に通じる小道への入口であり、江戸時代の表参道である。現代では、住宅の狭間にあり、見落としてしまいそうな場所である。見付天神裸祭では「元門車」を称する、現在の富士見町に所在する。歩いて行くのであるから、あえて細い道を行くのも楽しみのひとつである。
 その細い道の片側は雑木林になっており、竹や笹、棕櫚(シュロ)なども生えている。シュロは、この辺りに良く見られる植物で、なじみの深いものである。人の手で植えられたものかも知れないが、生き延びているのであるから、大切にしてあげなくてはならない。私は植物が好きだ。
 大義名分を言えば、こういうことになる。この地球上では、植物のみが独立栄養生物であり、動物や菌類は従属栄養生物であることを、私たちは高校の生物で学習した。つまり、植物というものが存在しなければ、私たち動物は、生きてゆけないのである。特に、私たち人類は、地球の環境に関して、過去に多くの無残な仕打ちをしてきたことに、最近、気がついた。それを自覚した現在以降は、地球上のあらゆる植物に対して謙虚でなければならない。
 午後の陽射しに映えるシュロの葉は堂々としたもので、ぐんぐんと光合成を行っているような気がして、頼もしかった。いつものように、老母に見せるための写真を撮影した。風は穏やかで、シュロが、私の愚鈍な動きを待ってくれているような気がした。
 その細い道は、急な下り坂になっており、そこを降りると、杉林を切り拓いたアスファルトの広い道に出る。とは言え、そこもまだ見付天神の森の中で、最近は駐車場のために、だいぶ平地を拡げたものだが、それでも周囲には高木が聳え、その下には深い藪が広がっている。
 その広い道を辿り、あらためて三本のクスノキの巨木のある、現代の表参道に出ることになる。この表参道もまた、随分と急な坂道だ。つまり、私は、坂道を下り、坂道を上って、見付天神へと向かうわけである。

法多山尊永寺

Hattasan Son-eiji

 老父のしていた家事を、現在は、私がしている。
 法多山尊永寺は、遠州(遠江國)に所在する古刹である。厄除観音として有名であるが、私の父は、遠州に居を構えて以来、毎年一月一日に初詣をする場所として此処を選び、歳月を重ねてきた。護摩祈祷をしてもらうことが目的である。願い事は、つねにかわらない。「家内安全」である。
 早朝、まだ日の昇らない内に、私は自宅から出発する。背広を着てネクタイを締め、マフラーと手袋をして出かける。背広の内部にはカシミヤのベストがある。コートは短いものを選ぶ。自動車を運転するからだ。
 老父と老母は留守番である。私に祈祷料や土産の代金を渡す。それを受け取らないのは失礼である。
 山を登る。昨年の御寶牘を納札所におさめる。祈祷を申し込んで、本堂に入る。多くの善男善女が、僧侶の行う儀式を拝観している。自分の祈祷が済むと、祈祷札授与所で、今年の御寶牘を受け取る。山を降りて、名物の厄除だんごを買う。そして、帰宅する。それが全行程である。
 祈祷を申し込むとき、私は、私の父の名を書く。代理で参拝するというわけだ。年齢も、干支も、父のものを書く。私自身については、どこに書くこともない。
 法多山尊永寺は、山林の中にある。参道には太い杉が何本も立ち、珍しいシダやコケが、冬の今でも生えている。
 遠州の南部は、暖かいところで、雪の降るということは、まったくない。北に日本アルプスがあり、東には遠く富士山や箱根がある。西には湖西連峰があり、大陸から来る雪雲は、そのすべてをどこかで使い果たしてしまう。風花が舞うようなことはあっても、降雪と呼べるようなものはない。むろん、積雪もない。
 南には太平洋が広がっている。太平洋には暖流が流れており、遠州灘と呼ばれる、その海岸線は、白い砂浜の続く景勝の地である。子供の頃からの、当り前の海岸で、海があることを、ごく自然に思っていた。そうでない土地もあることを知ったのは、遠州を出てからのことである。泳ぐには危険な海なので、あまり気軽に人の遊ぶことがない。そのことで、かえって自然のままの風景を残している。
 自然は、実は人類にとっては脅威であり、怖ろしいものである。しかし同時に、恵みを与えてくれるものでもある。永らく自然と付き合うことによって、遠州の先人たちは、自然と折り合う術を身につけてきた。現在、その知恵の蓄積の上に、遠州人の暮らしがある。それは槙囲いの家や、防風林に守られた陽だまりの住処として在る。入水してはいけない場所の言い伝えとして在る。日常、あまり気付くことなく暮らしているような、暢気な有り様ではあるが、遠州人の暮らしは古代からの賜物であるという気がする。
 法多山尊永寺の、暗い本堂では、僧侶が護摩を修している。多くの家庭の「家内安全」や「交通安全」を祈願している。善男善女たちは、大人しく、その声明を聴いている。自分の祈願を聴きおえると、本堂の中に設置された賽銭箱に小銭を投げて、静かに、そこから退出して行く。
 本堂を出ると、明るい視界が開ける。風花は舞っているが、寒いというほどでもない。