サッカー観戦記 2017.05.20 ヤマハスタジアム

Yamaha Stadium

 強い日差しの照りつける中、スタジアムへの道を歩く。まだ、汗の出るほどではないが、肌の灼ける感覚がある。
 今日は磐田市内の小学生を招待する「磐田デー」で、スタジアムからは子供たちの元気な声が聞こえてくる。急な暑さの中、長時間の観戦で、小さな身体が体調を崩さなければ良いが、と思う。直射日光の強い日で、みんな揃ってサックスブルーの帽子を被り、首からタオルをさげている。観戦は「授業」とされている。子供たちの行儀がいい。

 2017 J1 リーグ 第12節。ジュビロ磐田 vs 柏レイソル。14:00 キックオフ。レフリーは、福島孝一郎さん。
 前半早々。ジュビロ磐田が攻撃する。ロングボールを川又堅碁選手が胸で落とし、中村俊輔選手が拾って、アダイウトン選手に鋭いスルーパスを放つ。ツートップにした効果の現れた攻撃であったが、アダイウトン選手のシュートは、中村航輔選手の好守により阻まれた。一対一の局面で、ゴールキーパーが優れていたということである。
 ゴールキーパーの優秀さは、その直後のプレーからも証明された。敵陣中央、ペナルティーエリア直前でジュビロ磐田の得たフリーキックは、中村俊輔選手が枠内にシュートしたにもかかわらず、中村航輔選手の見事なパンチングによりセーブされた。コーナーキックからの攻撃もゴールには至らず、結局、ここで得点できなかったことが早々に試合を決定づけたようにも思える。
 柏レイソルは、チーム全体の陣形が整っていて、ボールを保持している時間も長く、つねにジュビロ磐田の選手が遅れている印象である。当然、ジュビロ磐田の陣形は崩され、ギャップが生じてしまう。伊東純也選手による右サイドへの突破が素晴らしく、ジュビロ磐田は何度も自陣深くまで攻めこまれるが、ボールに絡むのが精一杯で、なかなか自分たちのものにすることができない。自陣からのカウンター攻撃で、アダイウトン選手の力強い独走もあったが、最後を決めることができない。
 前半終了間際に、柏レイソルは、大きなサイドチェンジのロングボールを伊東純也選手がキープし、クリスティアーノ選手のフィニッシュにつなげた。ジュビロ磐田 0 – 1 柏レイソルで前半を終了する。

 後半。ジュビロ磐田は、伊東純也選手への対応を小川大貴選手に任せた。リードの余裕もあるせいか、柏レイソルの陣形は崩れにくく、ギャップを見つけることが難しい。それでもジュビロ磐田は攻め続け、中村俊輔選手が個人技で見事なループ・シュートを枠内へ蹴るが、またもや中村航輔選手の好守に得点を阻まれる。
 クリスティアーノ選手は運動量の多い優れたフォワードである。自陣から長い距離を走り、正確なクロスをあげて、中川寛斗選手のヘディングによるゴールをアシストした。スコアはジュビロ磐田 0 – 2 柏レイソル。後半30分という時間ではあるが、これまでの内容からみて、ジュビロ磐田に勝機はないように感じる。
 パスをつないで相手を崩すことができず、ロングボールで相手ディフェンスの裏に入っても、肝心のシュートが精度を欠き、枠内に飛ばない。他のポジションの選手はともかく、フォワードの選手はシュートの精度をあげるべく練習に励むべきだ。ロスタイムも5分あり、最後まで意地のワンゴールを期待したが、それすらもかなわなかった。最終スコアは、ジュビロ磐田 0 – 2柏レイソル。
 柏レイソルは、チームとしての完成度、クリスティアーノ選手、伊東純也選手、中村航輔選手ほか、各選手の個人的な能力など、基本的な部分で、ジュビロ磐田を凌駕していた。ジュビロ磐田は、柏レイソルのサッカーに対応するのが精一杯という感じで、自分たちのサッカーができていなかった。中村俊輔選手は素晴らしいが、他の攻撃的な選手にも活躍を望みたい。また、試合に勝利するためには、失点をしないことが非常に重要である。ゴールキーパーのカミンスキー選手は素晴らしいが、他の守備的な選手にもレベルアップを望みたい。相手に追いついてボールをはじくだけではなく、きちんと自分のボールにして、前線に供給することまでを仕事としてほしい。
 
 猛暑の中での敗戦で、磐田市内の小学生の皆様には、かえって申し訳ない結果になってしまった。しかし、柏レイソルの素晴らしいサッカーを観ることができたということでは、価値のある試合である。サッカー・ファンの増えることを期待したい。
 

パソコンの話

Ubuntu 14 04 LTS

 Windows Vista のサポート期間が2017年04月11日に終了した。
 しかし、私のマシン( CPU : Core2Duo 6600 @2.40GHz )は、まだ元気なので、既にパーティションを分割してインストールしてある Ubuntu 14.04 LTS をインターネットの接続先とし Windows Vista はスタンドアローンとして使用している。
 最初は CPU に Corei5 6400 あたりを購入し Windows 10 を載せようと考えていたのであるが、CPU のソケットがあわない( Core2Duo 6600 は LGA775、Corei5 6400 は LGA1151 )ので、マザーボードも買い換えなければならない。サポート終了への対応策を考え始めた 2015年11月当時に販売されていたマザーボードには Windows Vista に対応するものがなく Windows 10 とのデュアルブートというわけにもいかなかった。かといってマザーボードを交換すると Windows 10 へ完全に移行せざるをえず、 Windows Vista と、それに対応するアプリケーションで現在は入手できないものが、まったく使えなくなる。
 新しい CPU でマシンを組みたい気持もあったが、そうなるとメモリやソリッドステートドライブ、光学ドライブやディスプレイなども新調したくなる。ケース( ATX )と電源は現存するものを使い続けるつもりである。まだ使えるものを買い換える気にはならない。
 このマシンとは 2007年05月29日からの付き合いで、コンデンサの膨れあがったマザーボードやグラフィックスボードを交換して、現在まで大切に使用してきた。たかだか OS のサポートが終了したくらいで、マシンまで買い換えてしまうことは、自分の不勉強のようでふがいない。

 Windows Vista にはパーティションを管理できる機能がある。ハードディスクのうちに新しい記憶領域を確保して Ubuntu 14.04 LTS をインストールし、デュアルブートにした。この作業を行ったのは 2015年11月で、そのときは Windows Vista が優先的に選択されるよう設定しておいた。2017年04月11日までは Windows Vista をインターネットに接続して充分に使い切りたかったのである。
 2017年04月に Windows Vista の領域をできる限り圧縮して Ubuntu 14.04 LTS の領域を拡張した。私のハードディスクでは Windows Vista の領域の後方に Ubuntu 14.04 LTS の領域があるが、Ubuntu 14.04 LTS の前方に新しい領域を準備しても ハードディスクの内部にある GParted ではパーティションをリサイズすることができない。このときは DVD から Ubuntu 14.04 LTS をブートして GParted を使い、ハードディスクにある Ubuntu 14.04 LTS の領域を拡張した。
 私の Ubuntu 14.04 LTS は 2015年11月にダウンロードしたものなので、2017年04月現在だと Ubuntu 16.04 LTS へのアップグレードのお誘いがある。ところが、その誘いにのったところ、アップグレードの途中でハングアップしてしまった。電源を切り Ubuntu 14.04 LTS を再インストールする。このとき自然に選択されるブートを Ubuntu 14.04 LTS になるようにまかせた。素直にインストールすると Ubuntu 14.04 LTS を選択するようになるのである。
 ソフトウェアの更新をして Ubuntu 14.04.5 LTS にした。とりあえず不義理がないようメールを受信できるようにしておいた。Thnderbird 45.8.0 では「ユーザ名」に POP ID をあてた。ブラウザは Firefox 53.0 を使用している。ファイアウォールに Gufw を、ウイルススキャナーに ClamTk 5.09 を入れてみた。本格的に使用するのは、これからである。
 いつでも再インストールできるようにデータは殆ど入れていない。

春愁 其之ニ

Canada toadflax

 浜岡原子力発電所の事故に対応する広域避難計画が発表になったあと、福島第一原子力発電所の事故に対応する避難指示解除後の帰還の困難を知り、避難計画というものは帰還までを展望したものでなければならないと深く感じている。

 そもそも静岡県の温暖な気候しか知らない住民に、自家用車で岐阜県や金沢市まで避難しろというのが無理な話で、私などは雪道の運転の経験をしたこともなく、もちろん岐阜県や金沢市までの道順すら知らない。老親ふたりと近隣の高齢者を連れての道行となるはずで、それだけでも無理だという気がしている。
 金沢市まで自家用車で旅行した経験のある静岡県民、特に遠州の住民は、どのくらいいるのであろうか。NHKからは「北陸東海」という括りで扱われることが多いが、北陸地方の話題が静岡県でローカル番組として放映されることには違和感がある。北陸地方は、むしろ近畿圏との交流が深いのではないか。北陸地方と東海地方では気候も文化も異なる。未知の土地である岐阜県や金沢市に避難するよりも、友人知人の多い首都圏に避難したいのが正直な気持だ。

 避難指示解除後の帰還の困難を考えると更に憂鬱な気持になる。福島県の復興の様子を見ていると、はじめに自治体ありきの発想で、住民の意思を尊重しているとは思えない。行政がつねに正しい行動をとるとは限らない。彼らもまた誤りを犯すが、その誤りの責任を追及することは、証拠を押さえにくいこともあり、個人や法人の責任を追及することよりも遥かに難しい。
 被災地に於ける経済的な再建が困難であるなら、原発事故のリスクのない土地での「やりなおし」も視野に入れて考えなければならないだろう。すでに避難の段階で、将来のことを考え、広域避難計画区域以外の場所へ移動する住民もいるのではないか。やりなおすなら早い方が良いと思うが、私のように介護すべき家族を抱える者には、身動きもとりづらい。政府や事業者による保障が充分に行われるのかも不安である。

 浜岡原子力発電所の周辺自治体に住む者として、原発事故のリスクを負うことは覚悟している。避難や帰還も現実的な課題である。認知症の老父も、その世話をする老母も、やがては人生の終焉を迎える。認知症には在宅介護が望ましいのであるが、北陸の寒冷な気候のもと、集合住宅での介護も避けられないのかも知れない。せめて最期の時間くらい幸福に過ごさせてやりたいものである。

春愁

Kawazu zakura

Kawazu zakura

 私は UPZ(緊急時防護措置準備区域)に在住する人間であることを、まず告白しておきたい。このエントリがポジション・トークであり、私と私の家族の利益のためにする(というか、私と私の家族の将来の損失になるであろうことのリスクを避けるためにする)ものであることを告白しておかなければフェアではないと考えるからである。勿論、社会全体の利益を考えないわけではないが、その社会のスケールを基準として話を進めたいと思う。

 ツイッターのプロフにあるように、私は遠江國の人間である。明治維新で廃藩置県が行なわれた際、遠江國は浜松県とされた。明治維新では地租改正もあり、それに対して納税者である県民からは県民会開設の要望がなされた。実際に県民会議員を選ぶ選挙も行なわれ、この選挙では夫を亡くして戸主となった女性も参政権を行使している。自由民権運動の成果ではあったが、政府は浜松県を廃県にして静岡県に組み入れた [*01]。
 遠江國は大井川を挟んで駿河國と接しているが、湖西連峰を境に三河國とも接している。現在でも静岡県西部と愛知県との経済的なつながりは強く、遠州地域の製造業の取引先は県中部以東よりも尾張・西三河地区の方が多いという [*02]。
 静岡県は冬季に西風が強い地方なので、もし冬季に浜岡原子力発電所事故が起これば、駿河湾は台無しになる。伊豆半島の西岸も大きな損害を被ることになるであろう。農業又は水産業及びそれらの加工業並びに飲食業や観光業などは、その時点で再起不能となるリスクが否定できない。これらの産業には中小企業や自営業が多く、また、静岡県の温暖な気候や景観の美しさなど、自然環境の恩恵を資源としているからである。
 すでに静岡県内で事業を続けている方々は諦めているのかも知れないが、原発のリスクがある限り、新規参入者を募っても投資や事業を呼び込むことは難しいと私は考えている。地震と津波からの復興には可能性があっても、原発事故からの復興は不可能に近いことが、この五年間で実証されている。既存の浜岡原子力発電所については、廃炉及び核燃料の早期撤廃を目指すよう明確に宣言することが、静岡県の農業に新規参入者を呼び込むために必要ではなかろうか。
 浜岡原子力発電所を再稼動したいのは中部電力である。中部電力に投資や融資をしている首都圏や中京圏の投資機関や投資家は、原発事故前までは象徴的な安定銘柄であった電力株の毀損することなどを懼れて、その動きを応援するだろう。総じて原発推進派は首都圏などの大都市圏に多いように思う。彼らはリスクをとらずにリターンをねらえる、この取引に執着している。静岡県にリスクを負わせ、首都圏などがリターンを得られる好条件の取引である。彼らは豊富な経済力と文化力を動員して、静岡新聞に盛んに広告記事を掲載している [*03]。
 では、社会のスケールを国際社会にまで拡げてみたらどうであろうか。現在の国際秩序は国際連盟によって形成されている。国際連盟は第二次世界大戦に於ける連合国を原加盟国としており、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の五ヶ国が安全保障理事会の常任理事国を務めている。彼らは当然のように核兵器を保有するが、核の平和利用を理念とする原子力発電では、チェルノブイリ原発事故でロシアが大きな失態を犯している。欧州諸国に於いては、この事故が強い教訓となっているのではないか。
 科学技術や経済の面ではドイツが有力であるように思う。福島第一原子力発電所事故を受けて、ドイツ連邦政府は脱原発に積極的な姿勢を示している。エネルギー問題は地球規模のスケールで考えるべきものだ。日本以外にも地学的に地震や火山による災害に見舞われる国は多い。科学技術力と経済力を兼ね備えた日本は、それに応じた技術開発をすすめることが、国際社会での役割ではなかろうか。日本の科学技術力と経済力に脱原発という方向性を与えることは、国際社会の利益にもなると私は考えている。

[*01] 北岡和義「時評 初の女性参政権行使」静岡新聞2016年02月25日朝刊。
[*02] 俵山初雄「Interview 県をまたいだ連携強化」静岡新聞2016年02月25日朝刊。なお、この記事は「新東名 浜松いなさJCT – 豊田東JCT 2月13日開通」という静岡新聞営業局で企画・制作されたものの中にある。
[*03] 多すぎて拾いきれない。

文章について

Okegayanuma

Okegayanuma

 私が毎月、このブログで拙い文章を書いているのは、現代文の勉強を考えてのことである。センター試験の現代文では、評論と小説が、それぞれ50点の配点で出題されるが、それにあわせるかたちで、論理的な文章を「随筆」として、文学的な文章を「小説」として書くことを試みている。文章を書くことは、その模範となるような優れた文章を読む動機にもなる。
 社会人になると雑多な文章の読み書きに追われて、本格的な評論や小説を読む機会は少なくなる。日常的な文書は、そのやりとりをする双方の間で共有されている、なんらかの予備知識を前提として書かれることが多く、それは時間短縮のためであるとは思うが、あまり論理的でなかったり、表現として適切でなかったりしても、通用してしまうようなところがある。
 人間関係の円滑さを尊重して、日本語としてのおかしさを指摘しない、指摘されないような場合もある。例えば余程親しい間柄でもない限り、その方の書かれた文章に対して「ヘンな日本語ですね」とは言わない。「ヘンな日本語を指摘していただいてありがたい」と感謝されることもないとは言い切れないが、ひとの感情を害するリスクを敢えておかすこともない。自尊心が国語辞典を超越しているようなひとは世間に珍しくない。
 むろん言葉は道具であり、社会は共存することに意義があるのだから、無意味な衝突を避けるという意味で、日本語という道具にこだわることは、あまり良いこととは言えないのかも知れない。だが、一方で日本語には、センター試験として厳しく評価されるという一面もある。センター試験で要求されるものは、高等教育を高次の義務教育と考えた場合に期待されるものを示しているように思う。数学や理科などの各教科では専門的な語彙を修得するが、現代文では一般的な語彙を修得する。国語辞典を典拠として、適切な語彙と正格な文法を遵守しなければ得点することはできず、延いては大学に進学することもできず、社会に参加すること自体が難しくなる。
 既に大学を卒業してしまっているから良いというものではない。先輩は後輩に模範を示さなくてはならない。少なくとも高校で現代文について学び、大学に進んだような人間であるなら、現代日本語について反省する時間を持つこともできるのではないか。
 教育は未来を創る。教師による学校教育は社会の根幹であるが、社会人が言葉という道具をキレイに使うことは、その模範を示すという意味で実践的な社会教育でもあるように思う。言葉をキレイに使うためには、自分だけではない、相手への配慮も欠かせない。言葉を学ぶことには倫理的な意義もあるように最近は感じている。

語学について

mosses

mosses

 先日、友人たちと会話をしていて、ドイツ語のことが話題になったとき、ある友人が「分離動詞」について教えてくれた。彼のように大学時代に第二外国語をドイツ語で履修した日本人は多いだろう。ドイツ語を学ぶことで、その方々と共通の話題を持つことができるという効用もあることに気が付いた。むろんドイツ語圏からは多くの書籍が出版されている。学ぶ価値のある魅力的な言語である。

 語学はスポーツと学問の中間にあるものではなかろうか。
 基礎となる単語の発音や強勢、綴りなどは、単純な反復練習で身にしみこませるものである。短時間でも毎日繰り返すことにより効果の現れることなど、まさにフィジカルな基礎訓練であるように思う。
 高校生の語学としては「英語」が課されるが、私は「国語」もまた語学として考えてみると面白いと思う。「日本語」の基礎となる語彙や文法を再確認し、その読解力や表現力を強化しておけば、他の教科に於いて、日本語により出題される問題について日本語で解答する際、大きな支えになる。
 英語は、日本人にとって西欧の諸言語を学ぶ起点になるものだと考えている。英語からフランス語への距離は、日本語から英語への距離よりも短い。フランス語が解るとスペイン語、ポルトガル語などにも類推が効くようになる。おそらく日本人にとって西欧の諸言語は、最初の壁が最も高い。ラテン文字の世界で「英語」という起点を確保できれば、その後の展開はスムースになる。また、そこからキリル文字で書かれるロシア語へと展開してゆくこともできる。

 国際化の時代となり、海外に行くことのない人間にも、語学を学習する必然性が生じているように感じる。翻訳家や通訳など語学の専門家の存在も重要ではあるが、個人個人が語学力を身につけることもまた、期待される時代ではないか。
 そして、ウェブの興隆により、語学を学習する環境もまた格段に向上している。特に「読み物」が大量に供給されていることは画期的なことで、読解力を向上させるための教材を自由に選択できることは非常に贅沢で有難いことだと思う。もちろん「動画」も語学の学習には有効で、リスニングの能力を向上させることが期待できる。
 それでも身近に教材の多い言語を選択することは、まだ、語学を継続するための要因のひとつであるように思う。テレビ番組が放送されていたり、辞書や参考書の多いものは、自分と相性の好いものを選択できるため、学習意欲を保ちやすい。学習辞書の選択肢の多さは、日本人がその言語を学習しやすい環境にあることを示している。
 個人が言語能力を高めることは、身体的には苦しい作業であるかも知れない。スポーツで楽しみながら体力をつけるように、音楽や映像などで楽しみながら語学力を鍛えることができれば、理想的である。

ミスについて

Oriental false hawksbeard

Oriental false hawksbeard

 ケアレスミスは世界最悪のミスである。
 数学の試験などにおいて、イージーなところで、読みミス・書きミス・計算ミスにより失点することほど最悪の事態はない。とはいえ私たちも人間であるから、ヒューマンエラーから逃れることは難しい。ヒューマンエラーは起こるものとして、それを早期に発見し、早期に修正することができれば、少々時間を失うことにはなるが、失点にまで至ることはない。
 そのためには「修正能力」が重要である。その時・その場で与えられるルールを早期に把握し、誤りを早期に発見して、書きかけた解答を早期に修正する、メンタルなレベルでタフな実力を保つことである。これはスポーツなどとも共通する。その時・その場で与えられるルールの把握や自分の答案の見直しと修正に時間を割くために、事前にできることは可能なかぎり準備しておくことが必要だ。定義や公式などを暗記するくらい身につけておくことは「修正能力」を保護するための措置なのである。
 もちろんミスを修正するためには、ミスを認識する能力が必要であることは言うまでもない。これはポイントカードの出現などで高度に複雑化した現代の消費行動などとも共通するものだ。店員が、釣銭を間違えたりレシートを渡し忘れたりしたとき、それは釣銭の検算やレシートの受領の確認を怠った自分の責任だと私は考えるようにしている。そのようにしてミスを認識する能力を鍛錬している。

 数学の基礎は数学用語の定義を確実に覚えることにあると思う。その意味で数学は他の科目と変わらない。どんな科目でも基本的には「知識」が問われる。「技能」としての計算能力がケアレスミスを許さない厳しさにあるため、その訓練の欠かせない科目ではあるにしても、基礎知識としての数学用語を理解していなければ、問題文を読むことすら難しい。問題文を適切に読むことができなければ、計算能力を発揮することもできない。もちろん解答することもできない。数式は、数学における表現を特徴づける重要なものであるが、解答の骨子としては、数学用語を適切に用いた論理的な文章が存在すると考えている。

 現代はケアレスミスの許されない社会である。
 地方では自動車の運転が当然のこととされているが、自動車の運転ミスは、最悪の場合、死につながる。銀行ではオンラインでの口座開設を強要されるが、それはサイバー空間の中で全財産を失うリスクに身をさらすことでもある。モータリゼーションや高度情報化は、ケアレスミスやヒューマンエラーに対して、とてつもない損害賠償を要求する過酷なものである。
 しかし、普通自動車免許を保持していなければ、地方で就職することは先ず不可能である。大都市圏に御住まいの方には理解していただけないかも知れないが、交通手段である電車もバスもなく、食料品店や医療機関までの距離が遠い地方都市では、自動車なくしては満足な生活は営めない。また、パソコンやウェブを使いこなす能力に乏しければ、当然のように仕事もない。現在の高齢者たちが現役であった時代には、このような能力がなくても就職でき、生活してゆくことができた。現代の現役世代は、昔日の現役世代よりも重い負荷を課せられている。
 自動車とパソコンの操作能力が必修である現代社会において、最も重要な能力は「ミスをしない」能力である。少しでもミスがあれば、それを起因として重大な損失を負うことになる。生命も積みあげてきた財産も一瞬の内に奪われる。そのようなリスクの高い社会に私たちは生きている。
 こうした社会に於いては、例え容易だと思われる問題でも慎重に取り組む姿勢を育まなければならない。数学などはケアレスミスの多い生徒には辛い教科であろうが、それは社会に出てから取り返しのつかない致命的なミスをしないための予行演習であるとも考えられる。ケアレスミスこそ最悪のミスであると考え、それを克服することが、数学の得点をあげるコツでもあり、ミスの少ない人間になるための訓練であるように思う。