語学について 其之三

Lantana

 先日、ブラジル出身の方、複数名と話す機会があった。
 ブラジル出身の方は基本的にブラジル・ポルトガル語しか理解しない。日本語に堪能な方が私にうちあけてくださったことであるが、彼女らは基本的に英語を理解しない。これは、それまで海外出身の方たちと英語で話していた私自身には痛切な警告であった。世界には英語を解さない方たちも存在するのである。
 私は早速「ブラジル・ポルトガル語」に関する書物を近隣の書店で購入した。ブラジル・ポルトガル語に関しては、わが自治体にその住民の多いこともあって、いつかは勉強しなくてはならないという責任を感じていたのであるが、まさかその場でスイッチが入るとは思っていなかった。
 今まではETVにブラジル・ポルトガル語の講座のないことを勉強しない言い訳にしていたのであるが、もう、その言い訳も通用しない。いま、隣りにいるブラジル出身の方に話しかけられなくてどうするか。喫緊の課題である。

 ETV「旅する◯◯◯◯語」のシリーズは2017年10月から新しいものになった。私は「旅するスペイン語」を選択して視聴している。ポルトガル語とスペイン語は非常に近い言語である。
 実は、スペイン語は、私が大学一年生のときに、そのときはアメリカ合衆国のヒスパニックについて研究したく選択を希望して、大学側から許可されなかった科目である。
 それで私はフランス語のクラスにまわされた訳であるが、そこから原書購読、卒業論文へとフランス語の世界を通じて私は大学を卒業することができた。やはり当時の私には、スペイン語圏よりフランス語圏に読むべき文献があった。その判断は(私自身ではなく)指導教官に託されていたのであるが、その方が正しい判断をして下さった。私は指導教官に恵まれていたと思う。

 ブラジル・ポルトガル語と日本語しか理解しえない住民は、いま現在、私たちの近隣に住んでいる。彼らのうちのひとりから「スペイン語を話せないか」というご質問もいただいた。
 ポルトガル語とスペイン語について学習したいと考えている。

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語学について 其之二

Okegayanuma

 2017年4月から「旅するイタリア語」を視聴している。
 NHK教育テレビの語学講座でユーロ圏のものは、2016年10月の編成から旅行番組のような仕様になって、私はドイツ語とフランス語を視聴した。いずれも深夜の放送なので、予約録画しておいて、食事中などに観ている。大学の授業とは異なり、試験を受けたり、成績を気にする必要もないので、気軽に楽しむことができる。なお、2017年4月からの番組は、すべて2016年10月からの番組の再放送である。
 イタリアはローマ帝国の地である。古代から現代に至るまで、ヨーロッパの政治、経済、文化において重要な地域である。高校で世界史を学ぶときにムリヤリ暗記した知識が甦り、また、モヤモヤしたまま詰め込んでいた事柄なども明確になって、イタリア語とイタリア文化を学ぶことは、受験勉強のデトックスをするような効能があるように感じている。
「旅する◯◯◯◯語」のシリーズは、現地の映像が豊富で、音声もネイティヴなので、日本人の講師から教室で外国語を学習するよりも、身体に素直に響いてくる。美術、映画、料理など、イタリア文化に魅力的なものの多いことも、勉強のモチベーションになる。
 イタリア語の語彙はフランス語に似たものが多く、それは英語にも通じていて、その差分を学ぶことにより、語彙を増やすことが可能なように思う。イタリア語を新しく学ぶことはフランス語や英語を復習することでもある。

 中国語の語彙に日本語に似たものが多く、また韓国語に共通するものの多いこともまた同様の現象で、私は日本語の探究から中国語と韓国語に興味を持ち始めたのであるが、やはり差分を認識することで語彙を増やせるように思う。ただし、中国語も韓国語もリスニングが難しい。いずれの言語にも日本語にはない発音があり、その聴き分けができない。中国語には声調という要素もあり、聴き取りはかなり困難である。時々、NHK総合テレビのニュースで、中国語の音声をそのまま流してくれることがあるが、得がたい機会だと思い、聴き取りに挑戦している。
 2017年4月からは「テレビで中国語」も視聴している。こちらは「旅する◯◯◯◯語」のシリーズとは異なり日本でのスタジオ収録であるが、発音を丁寧に教えていただけるのが嬉しい。ピンイン・トレーニングなど、テレビならではのメリットをうまく活かしているように思う。

サッカー観戦記 2017.05.20 ヤマハスタジアム

Yamaha Stadium

 強い日差しの照りつける中、スタジアムへの道を歩く。まだ、汗の出るほどではないが、肌の灼ける感覚がある。
 今日は磐田市内の小学生を招待する「磐田デー」で、スタジアムからは子供たちの元気な声が聞こえてくる。急な暑さの中、長時間の観戦で、小さな身体が体調を崩さなければ良いが、と思う。直射日光の強い日で、みんな揃ってサックスブルーの帽子を被り、首からタオルをさげている。観戦は「授業」とされている。子供たちの行儀がいい。

 2017 J1 リーグ 第12節。ジュビロ磐田 vs 柏レイソル。14:00 キックオフ。レフリーは、福島孝一郎さん。
 前半早々。ジュビロ磐田が攻撃する。ロングボールを川又堅碁選手が胸で落とし、中村俊輔選手が拾って、アダイウトン選手に鋭いスルーパスを放つ。ツートップにした効果の現れた攻撃であったが、アダイウトン選手のシュートは、中村航輔選手の好守により阻まれた。一対一の局面で、ゴールキーパーが優れていたということである。
 ゴールキーパーの優秀さは、その直後のプレーからも証明された。敵陣中央、ペナルティーエリア直前でジュビロ磐田の得たフリーキックは、中村俊輔選手が枠内にシュートしたにもかかわらず、中村航輔選手の見事なパンチングによりセーブされた。コーナーキックからの攻撃もゴールには至らず、結局、ここで得点できなかったことが早々に試合を決定づけたようにも思える。
 柏レイソルは、チーム全体の陣形が整っていて、ボールを保持している時間も長く、つねにジュビロ磐田の選手が遅れている印象である。当然、ジュビロ磐田の陣形は崩され、ギャップが生じてしまう。伊東純也選手による右サイドへの突破が素晴らしく、ジュビロ磐田は何度も自陣深くまで攻めこまれるが、ボールに絡むのが精一杯で、なかなか自分たちのものにすることができない。自陣からのカウンター攻撃で、アダイウトン選手の力強い独走もあったが、最後を決めることができない。
 前半終了間際に、柏レイソルは、大きなサイドチェンジのロングボールを伊東純也選手がキープし、クリスティアーノ選手のフィニッシュにつなげた。ジュビロ磐田 0 – 1 柏レイソルで前半を終了する。

 後半。ジュビロ磐田は、伊東純也選手への対応を小川大貴選手に任せた。リードの余裕もあるせいか、柏レイソルの陣形は崩れにくく、ギャップを見つけることが難しい。それでもジュビロ磐田は攻め続け、中村俊輔選手が個人技で見事なループ・シュートを枠内へ蹴るが、またもや中村航輔選手の好守に得点を阻まれる。
 クリスティアーノ選手は運動量の多い優れたフォワードである。自陣から長い距離を走り、正確なクロスをあげて、中川寛斗選手のヘディングによるゴールをアシストした。スコアはジュビロ磐田 0 – 2 柏レイソル。後半30分という時間ではあるが、これまでの内容からみて、ジュビロ磐田に勝機はないように感じる。
 パスをつないで相手を崩すことができず、ロングボールで相手ディフェンスの裏に入っても、肝心のシュートが精度を欠き、枠内に飛ばない。他のポジションの選手はともかく、フォワードの選手はシュートの精度をあげるべく練習に励むべきだ。ロスタイムも5分あり、最後まで意地のワンゴールを期待したが、それすらもかなわなかった。最終スコアは、ジュビロ磐田 0 – 2柏レイソル。
 柏レイソルは、チームとしての完成度、クリスティアーノ選手、伊東純也選手、中村航輔選手ほか、各選手の個人的な能力など、基本的な部分で、ジュビロ磐田を凌駕していた。ジュビロ磐田は、柏レイソルのサッカーに対応するのが精一杯という感じで、自分たちのサッカーができていなかった。中村俊輔選手は素晴らしいが、他の攻撃的な選手にも活躍を望みたい。また、試合に勝利するためには、失点をしないことが非常に重要である。ゴールキーパーのカミンスキー選手は素晴らしいが、他の守備的な選手にもレベルアップを望みたい。相手に追いついてボールをはじくだけではなく、きちんと自分のボールにして、前線に供給することまでを仕事としてほしい。
 
 猛暑の中での敗戦で、磐田市内の小学生の皆様には、かえって申し訳ない結果になってしまった。しかし、柏レイソルの素晴らしいサッカーを観ることができたということでは、価値のある試合である。サッカー・ファンの増えることを期待したい。
 

パソコンの話

Ubuntu 14 04 LTS

 Windows Vista のサポート期間が2017年04月11日に終了した。
 しかし、私のマシン( CPU : Core2Duo 6600 @2.40GHz )は、まだ元気なので、既にパーティションを分割してインストールしてある Ubuntu 14.04 LTS をインターネットの接続先とし Windows Vista はスタンドアローンとして使用している。
 最初は CPU に Corei5 6400 あたりを購入し Windows 10 を載せようと考えていたのであるが、CPU のソケットがあわない( Core2Duo 6600 は LGA775、Corei5 6400 は LGA1151 )ので、マザーボードも買い換えなければならない。サポート終了への対応策を考え始めた 2015年11月当時に販売されていたマザーボードには Windows Vista に対応するものがなく Windows 10 とのデュアルブートというわけにもいかなかった。かといってマザーボードを交換すると Windows 10 へ完全に移行せざるをえず、 Windows Vista と、それに対応するアプリケーションで現在は入手できないものが、まったく使えなくなる。
 新しい CPU でマシンを組みたい気持もあったが、そうなるとメモリやソリッドステートドライブ、光学ドライブやディスプレイなども新調したくなる。ケース( ATX )と電源は現存するものを使い続けるつもりである。まだ使えるものを買い換える気にはならない。
 このマシンとは 2007年05月29日からの付き合いで、コンデンサの膨れあがったマザーボードやグラフィックスボードを交換して、現在まで大切に使用してきた。たかだか OS のサポートが終了したくらいで、マシンまで買い換えてしまうことは、自分の不勉強のようでふがいない。

 Windows Vista にはパーティションを管理できる機能がある。ハードディスクのうちに新しい記憶領域を確保して Ubuntu 14.04 LTS をインストールし、デュアルブートにした。この作業を行ったのは 2015年11月で、そのときは Windows Vista が優先的に選択されるよう設定しておいた。2017年04月11日までは Windows Vista をインターネットに接続して充分に使い切りたかったのである。
 2017年04月に Windows Vista の領域をできる限り圧縮して Ubuntu 14.04 LTS の領域を拡張した。私のハードディスクでは Windows Vista の領域の後方に Ubuntu 14.04 LTS の領域があるが、Ubuntu 14.04 LTS の前方に新しい領域を準備しても ハードディスクの内部にある GParted ではパーティションをリサイズすることができない。このときは DVD から Ubuntu 14.04 LTS をブートして GParted を使い、ハードディスクにある Ubuntu 14.04 LTS の領域を拡張した。
 私の Ubuntu 14.04 LTS は 2015年11月にダウンロードしたものなので、2017年04月現在だと Ubuntu 16.04 LTS へのアップグレードのお誘いがある。ところが、その誘いにのったところ、アップグレードの途中でハングアップしてしまった。電源を切り Ubuntu 14.04 LTS を再インストールする。このとき自然に選択されるブートを Ubuntu 14.04 LTS になるようにまかせた。素直にインストールすると Ubuntu 14.04 LTS を選択するようになるのである。
 ソフトウェアの更新をして Ubuntu 14.04.5 LTS にした。とりあえず不義理がないようメールを受信できるようにしておいた。Thnderbird 45.8.0 では「ユーザ名」に POP ID をあてた。ブラウザは Firefox 53.0 を使用している。ファイアウォールに Gufw を、ウイルススキャナーに ClamTk 5.09 を入れてみた。本格的に使用するのは、これからである。
 いつでも再インストールできるようにデータは殆ど入れていない。

春愁 其之ニ

Canada toadflax

 浜岡原子力発電所の事故に対応する広域避難計画が発表になったあと、福島第一原子力発電所の事故に対応する避難指示解除後の帰還の困難を知り、避難計画というものは帰還までを展望したものでなければならないと深く感じている。

 そもそも静岡県の温暖な気候しか知らない住民に、自家用車で岐阜県や金沢市まで避難しろというのが無理な話で、私などは雪道の運転の経験をしたこともなく、もちろん岐阜県や金沢市までの道順すら知らない。老親ふたりと近隣の高齢者を連れての道行となるはずで、それだけでも無理だという気がしている。
 金沢市まで自家用車で旅行した経験のある静岡県民、特に遠州の住民は、どのくらいいるのであろうか。NHKからは「北陸東海」という括りで扱われることが多いが、北陸地方の話題が静岡県でローカル番組として放映されることには違和感がある。北陸地方は、むしろ近畿圏との交流が深いのではないか。北陸地方と東海地方では気候も文化も異なる。未知の土地である岐阜県や金沢市に避難するよりも、友人知人の多い首都圏に避難したいのが正直な気持だ。

 避難指示解除後の帰還の困難を考えると更に憂鬱な気持になる。福島県の復興の様子を見ていると、はじめに自治体ありきの発想で、住民の意思を尊重しているとは思えない。行政がつねに正しい行動をとるとは限らない。彼らもまた誤りを犯すが、その誤りの責任を追及することは、証拠を押さえにくいこともあり、個人や法人の責任を追及することよりも遥かに難しい。
 被災地に於ける経済的な再建が困難であるなら、原発事故のリスクのない土地での「やりなおし」も視野に入れて考えなければならないだろう。すでに避難の段階で、将来のことを考え、広域避難計画区域以外の場所へ移動する住民もいるのではないか。やりなおすなら早い方が良いと思うが、私のように介護すべき家族を抱える者には、身動きもとりづらい。政府や事業者による保障が充分に行われるのかも不安である。

 浜岡原子力発電所の周辺自治体に住む者として、原発事故のリスクを負うことは覚悟している。避難や帰還も現実的な課題である。認知症の老父も、その世話をする老母も、やがては人生の終焉を迎える。認知症には在宅介護が望ましいのであるが、北陸の寒冷な気候のもと、集合住宅での介護も避けられないのかも知れない。せめて最期の時間くらい幸福に過ごさせてやりたいものである。

春愁

Kawazu zakura

Kawazu zakura

 私は UPZ(緊急時防護措置準備区域)に在住する人間であることを、まず告白しておきたい。このエントリがポジション・トークであり、私と私の家族の利益のためにする(というか、私と私の家族の将来の損失になるであろうことのリスクを避けるためにする)ものであることを告白しておかなければフェアではないと考えるからである。勿論、社会全体の利益を考えないわけではないが、その社会のスケールを基準として話を進めたいと思う。

 ツイッターのプロフにあるように、私は遠江國の人間である。明治維新で廃藩置県が行なわれた際、遠江國は浜松県とされた。明治維新では地租改正もあり、それに対して納税者である県民からは県民会開設の要望がなされた。実際に県民会議員を選ぶ選挙も行なわれ、この選挙では夫を亡くして戸主となった女性も参政権を行使している。自由民権運動の成果ではあったが、政府は浜松県を廃県にして静岡県に組み入れた [*01]。
 遠江國は大井川を挟んで駿河國と接しているが、湖西連峰を境に三河國とも接している。現在でも静岡県西部と愛知県との経済的なつながりは強く、遠州地域の製造業の取引先は県中部以東よりも尾張・西三河地区の方が多いという [*02]。
 静岡県は冬季に西風が強い地方なので、もし冬季に浜岡原子力発電所事故が起これば、駿河湾は台無しになる。伊豆半島の西岸も大きな損害を被ることになるであろう。農業又は水産業及びそれらの加工業並びに飲食業や観光業などは、その時点で再起不能となるリスクが否定できない。これらの産業には中小企業や自営業が多く、また、静岡県の温暖な気候や景観の美しさなど、自然環境の恩恵を資源としているからである。
 すでに静岡県内で事業を続けている方々は諦めているのかも知れないが、原発のリスクがある限り、新規参入者を募っても投資や事業を呼び込むことは難しいと私は考えている。地震と津波からの復興には可能性があっても、原発事故からの復興は不可能に近いことが、この五年間で実証されている。既存の浜岡原子力発電所については、廃炉及び核燃料の早期撤廃を目指すよう明確に宣言することが、静岡県の農業に新規参入者を呼び込むために必要ではなかろうか。
 浜岡原子力発電所を再稼動したいのは中部電力である。中部電力に投資や融資をしている首都圏や中京圏の投資機関や投資家は、原発事故前までは象徴的な安定銘柄であった電力株の毀損することなどを懼れて、その動きを応援するだろう。総じて原発推進派は首都圏などの大都市圏に多いように思う。彼らはリスクをとらずにリターンをねらえる、この取引に執着している。静岡県にリスクを負わせ、首都圏などがリターンを得られる好条件の取引である。彼らは豊富な経済力と文化力を動員して、静岡新聞に盛んに広告記事を掲載している [*03]。
 では、社会のスケールを国際社会にまで拡げてみたらどうであろうか。現在の国際秩序は国際連盟によって形成されている。国際連盟は第二次世界大戦に於ける連合国を原加盟国としており、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の五ヶ国が安全保障理事会の常任理事国を務めている。彼らは当然のように核兵器を保有するが、核の平和利用を理念とする原子力発電では、チェルノブイリ原発事故でロシアが大きな失態を犯している。欧州諸国に於いては、この事故が強い教訓となっているのではないか。
 科学技術や経済の面ではドイツが有力であるように思う。福島第一原子力発電所事故を受けて、ドイツ連邦政府は脱原発に積極的な姿勢を示している。エネルギー問題は地球規模のスケールで考えるべきものだ。日本以外にも地学的に地震や火山による災害に見舞われる国は多い。科学技術力と経済力を兼ね備えた日本は、それに応じた技術開発をすすめることが、国際社会での役割ではなかろうか。日本の科学技術力と経済力に脱原発という方向性を与えることは、国際社会の利益にもなると私は考えている。

[*01] 北岡和義「時評 初の女性参政権行使」静岡新聞2016年02月25日朝刊。
[*02] 俵山初雄「Interview 県をまたいだ連携強化」静岡新聞2016年02月25日朝刊。なお、この記事は「新東名 浜松いなさJCT – 豊田東JCT 2月13日開通」という静岡新聞営業局で企画・制作されたものの中にある。
[*03] 多すぎて拾いきれない。

文章について

Okegayanuma

Okegayanuma

 私が毎月、このブログで拙い文章を書いているのは、現代文の勉強を考えてのことである。センター試験の現代文では、評論と小説が、それぞれ50点の配点で出題されるが、それにあわせるかたちで、論理的な文章を「随筆」として、文学的な文章を「小説」として書くことを試みている。文章を書くことは、その模範となるような優れた文章を読む動機にもなる。
 社会人になると雑多な文章の読み書きに追われて、本格的な評論や小説を読む機会は少なくなる。日常的な文書は、そのやりとりをする双方の間で共有されている、なんらかの予備知識を前提として書かれることが多く、それは時間短縮のためであるとは思うが、あまり論理的でなかったり、表現として適切でなかったりしても、通用してしまうようなところがある。
 人間関係の円滑さを尊重して、日本語としてのおかしさを指摘しない、指摘されないような場合もある。例えば余程親しい間柄でもない限り、その方の書かれた文章に対して「ヘンな日本語ですね」とは言わない。「ヘンな日本語を指摘していただいてありがたい」と感謝されることもないとは言い切れないが、ひとの感情を害するリスクを敢えておかすこともない。自尊心が国語辞典を超越しているようなひとは世間に珍しくない。
 むろん言葉は道具であり、社会は共存することに意義があるのだから、無意味な衝突を避けるという意味で、日本語という道具にこだわることは、あまり良いこととは言えないのかも知れない。だが、一方で日本語には、センター試験として厳しく評価されるという一面もある。センター試験で要求されるものは、高等教育を高次の義務教育と考えた場合に期待されるものを示しているように思う。数学や理科などの各教科では専門的な語彙を修得するが、現代文では一般的な語彙を修得する。国語辞典を典拠として、適切な語彙と正格な文法を遵守しなければ得点することはできず、延いては大学に進学することもできず、社会に参加すること自体が難しくなる。
 既に大学を卒業してしまっているから良いというものではない。先輩は後輩に模範を示さなくてはならない。少なくとも高校で現代文について学び、大学に進んだような人間であるなら、現代日本語について反省する時間を持つこともできるのではないか。
 教育は未来を創る。教師による学校教育は社会の根幹であるが、社会人が言葉という道具をキレイに使うことは、その模範を示すという意味で実践的な社会教育でもあるように思う。言葉をキレイに使うためには、自分だけではない、相手への配慮も欠かせない。言葉を学ぶことには倫理的な意義もあるように最近は感じている。