難問について

chinaberry

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 受験を一度でも経験した方になら理解していただけると思うが、制限時間のある試験においては「難問を捨てよ」という鉄則がある。
 やさしくて短時間で解ける問題を優先することにより得点を増やし、難しくて長時間を要し、解けないで失点するような問題には手を出すな、という受験テクニックである。それ自体は説得的なものであり、有効なものでもあるが、現実の社会において、この鉄則を適用することは果たして妥当なのであろうか。

 顧客を抱える実務においては、原則として制限時間はない。時間の不足については「残業」「持ち帰り」という非常手段をとることもできる。常に満点を要求されるわけではあるが、時間をかけられるのであるから「見直し」や「修正」をすることもできる。
 この場合において、受験で学習した鉄則を実践することは、極めて危険であるばかりか、まったく意味がない。むしろ時間のかかる難問から着手しておいて、時間をかけて解決しておくことが重要なのであり、時間があれば解ける問題であるのなら(あるいは解の存在しないことを証明できる問題であるのなら)それで顧客の信頼を得ることは充分に可能なのである。

 しかし、社会全体で抱える難問については、どうだろうか。やさしい問題の解決を優先するあまり、難問が先送りになってはいないだろうか。本来、政治家や官僚の考えるべき問題かとも思うが、彼らの能力が疑わしいのであるなら、それらもまた私たちの問題として引き受けなければならない。
 例えば、現在の原発停止は1970年代にまで認識を遡らせての反省である。政府や自治体が「経済」のために先送りしてきた問題を、いまになって再考しているに過ぎない。官民癒着と安全性の問題として考えれば、韓国の海難事故と同じ構図のようにも見える。経済を優先するために社会的な安全性が蔑ろにされてきた。
 この問題を解決するためには、いわゆる理系の専門知識だけでは不可能である。原子力工学の専門家だけで即断できる問題ではなく、地球科学に関する知見も考慮する必要があるだろう。避難計画については社会工学や都市工学の知見が必要になるだろう。基本的人権や倫理の問題として考える必要もある。1970年代以前からの、科学技術や自然環境に関する諸問題が、ときの政治経済の権力で押し切られてきた歴史を検証し、同じような公共政策の決定を許さないような法律や制度を考え直す必要もある。

 以上は、いわば「社会」を視点としてのマクロ的なアプローチであるが、私は UPZ (Urgent Protective action planning Zone : 緊急時防護措置準備区域)の住民であるため「個人」の視点からのミクロ的なアプローチも必要であると考えている。自治体行政からは、防災は「自助・共助」でと事前に告げられている。しかし、やはり個人で原発事故に対応することは難しい。
 私ひとりなら身軽に移動もできるが、私には護らなくてはならない老親がいる。老父は軽度の認知症を患っており、この土地を離れたら、もはや幸福に生きてゆくことはできないだろう。オレンジプラン(認知症施策推進5か年計画)の具体的な実施を待たずとも、私は老親が自宅で最期まで健康に生活できる方法を模索している。この土地を離れないということは、その最低限の条件である。
 現代の「地方」は自動車社会であり、運転手の私がいないと老親は満足な生活を営むことができない。医療制度には恵まれているが、医師による医学的な説明を理解する代理人として、私も同席を求められる。とりわけ老人の家庭で脅威なのは「契約」に関することだ。現代では高齢者を標的とした巧妙なビジネスが蔓延している。
 現代社会を生きるということは、不可避的に降りかかる諸問題を解決しながら生きてゆくことである。物理的な事柄から、医学的な事柄、社会的な事柄まで。問題の難易度を見極め、着手する優先順位を決めて、適確に処理してゆかなくてはならない。その問題が難しいからといって、捨てるわけにはいかないのである。

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