サークルによる文学活動について

Yabukiri

Yabukiri

 文学活動をサークルとして行なう場合、自分たちの仲間を多く集めたいという理由で、敷居を下げてしまうことがある。
 和歌や俳諧など、古典的な定型詩の世界には約束事のようなものが多くあるが、それについては大目に見ようということになる。文学様式のレベルのみでなく、語学のレベルに於いても基準を甘くするようになり、究極的には文語文法や歴史的仮名遣いの正格でないものまで許容するようになる。
 サークル外の人間から見ると、それは奇妙な光景に映る。高校の古文の授業で学んできた文語文法や歴史的仮名遣いの知識はサークル外の人間も持つものであるから、そのサークルで行なわれている文学活動が、おかしなものであるように感じる。
 決してサークル内には入って来ないであろうサークル外の人間に対しては、サークル内の人間の態度は厳しい。「学校で教えることがすべてではない」と言い放ち、自己を正当化するようになる。古文で学んだ文法と現代文で学んだ文法とが混在する独創的な文体ができあがる。
 文学活動よりもサークルの維持・拡大が主眼となり、話し相手が欲しいだけの社交を目的とした集団になると、作品の品質も作家の倫理もおかしくなってゆく。文学が自己表現の手段であることを逆手にとり、読者不在の詩文を書きまくる。仲間内の狭い空間で盛り上がり、サークル外の人間からの言葉には耳を貸さなくなる。仲間を擁護するあまりサークル外の人間に敵対することさえある。
 そのような閉鎖的な空間は居心地の良いものであろうが、すでに外部との交流は自ら絶ち切ったも同然なので、組織の維持・拡大のためには、新しい世代を自分たちの仲間に引き摺りこまざるを得ない。そのようなサークルがウブな初心者を勧誘することになる。初心者は、優しく声をかけてくれた先輩のいるサークルに入会してしまうかも知れない。そして、閉塞したサークルの空間の中で、サークル内でしか通用しないような詩文を書き、サークル内の仲間の書いた詩文を読んで、時間を過ごすことになる。

 文学が好きでも、文学活動を行なうサークルには入会しない者もいる。生活のための仕事に時間を割かなければならず、学業を優先するために学術的な専門書などに金銭を費やす者たちである。そのような者は独学で文学を探究する。第二外国語を学習することによる語学的な世界の拡がりもあり、日本の古典文学のみならず、世界文学や哲学・思想の分野にまで興味を抱き、その知的世界の拡がるままに、自由に読書を重ねることになる。
 時間的・経済的な制約の強い者には余裕がない。仕事や家事に勤しむようになると、なかなか自分の自由になる時間はとれないものである。文学書を後回しにして実務的な書籍を読み、資格試験に備えて受験勉強したりもする。それでも文学が好きな者は、文学や哲学の書籍を読み、自分なりに文章を書き始める。

 21世紀の現代、ウェブの時代になり、地理的・時間的な制約がいくらかは緩和されたとは言え、やはり文学の中心はメディアの多い東京にあり、首都圏や関西圏などでサークルを形成する方たちが、文学の世界でも優位であるように思える。
 彼らも社会人としての経験は積んでいるはずなので、あまり内向きではいられないはずなのだが、ときにサークル活動のような側面の垣間見えることがある。仲間内で盛り上がり、作品よりも人間関係を慮り、サークル外の人間からの言葉には耳を貸さない。当然、読者の増えることもなく、仲間内で作品を流通させ、まだなにも知らない初心者を勧誘して、自分たちの組織の維持・拡大に努めようとする。彼らは、仲間内での飲食や旅行に忙しい、社交を目的とした集団を形成しているようにも見える。
 そんな彼らを「人間関係派」と名づけたい。中村草田男・加藤楸邨・石田波郷ら「人間探究派」は素晴らしい遺産を俳句の世界に残してくれたが「人間関係派」は短歌や俳句の世界に、どのような足跡を残してくれるのであろうか。

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