歴史について

Hyootan Ike

Hyootan Ike

 小説、映画、テレビドラマのいずれに於いても、私は「歴史」に関するものには興味が湧かない。NHKの大河ドラマに意外と人気のあることをツイッターで知ったが、私には、それを観ることができない。ただ、そのエッセンスをツイートで伝えていただけることのみを享受している。
 私にはミステリーの好きな友人がいて、ジョセフィン・テイ「時の娘」や、岡本綺堂「半七捕物帳」、久生十蘭「顎十郎捕物帳」、多岐川恭「異郷の帆」、都筑道夫「なめくじ長屋捕物さわぎ(の一部)」などは楽しく読ませていただいた。だが、ミステリー・サスペンスの要素を欠いた歴史・時代小説を読む自信はない。映画では黒澤明監督「用心棒」「椿三十郎」に感心したが、テレビドラマの時代劇は観ることができない。
 むろん、高校では世界史と日本史を履修し、それなりの成績を収めてはきたが、それは世界史と日本史の教師が優秀であったからであって、決して私の手柄であるとは言えない。大学受験に於いても世界史や日本史は必修科目に近いと思うが、マインドスポーツとして、記憶力ゲーム(メモリースポーツ)をしているに過ぎない印象もある。「歴史上の人物名」などは、テレビのクイズ番組では格好のテーマであろうが、現代社会に於いて実務的に必要であるとは思えない。
 京都府や奈良県などにお住まいの高校生には、他の都道府県に住む高校生よりもアドバンテージがあるように思えてならない。私の修学旅行は中学も高校も「京都・奈良」であったが、それには教育的な配慮があったであろうことは、容易に推察できる。高校古文や日本史に於いて得点するには「京都・奈良」を空想せざるを得ないからだ。中等教育に、このような地理的な不公平のあることは、案外、無視されているのではないか。
 しかし「歴史」は、人文・社会科学に於いて、基礎科学的な役割を果たしているような気がしないでもない。私が日本語日本文学を学び始めたのは、ツイッターに参加して以降のことであるが、その際には高校日本史や高校倫理(日本の思想)の知識が大きな支えになった。
 そもそも歴史とは「記述されたもの」であり、言語や文字、文学などを考える際には、地理と歴史の基礎知識があると、いろいろと理解しやすい。高校生が進学した大学で学ぶことになる人文・社会科学(法学、経済学など)に於いては、近現代史の教養が不可欠であることは言うまでもない。いや、自然科学に於いても学説史を学んでおくことは、大きな支えになるであろう。数学史や科学史を知ることが、数学や自然科学そのものを理解することにつながるように思う。
 時系列という絶対的な基準には、高校物理でいう「不可逆性」のような非情さがあって、余計なことを悩むことなく切り捨てられる爽快さがある。歴史の勉強には年号(西暦)があるから、秩序立てて整理することが可能になるし、事象の因果関係も把握することができる。年号による整理がなければ、歴史の勉強は混沌としたものになることであろう。
 たかだか四桁の数字を覚えることによって、世界を解明する糸口が見つかるのだよ、高校生諸君。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中