批判について

Narcissus

Narcissus

 批判(kritik )という言葉は、イマヌエル・カントを源流とするものであろうか。フランクフルト学派にも、批判理論(kritische theorie )という言葉が見られる。私は、ドイツ語を専攻する者ではなく、ドイツ哲学の良い読者でもないので、これらの言葉と、その意味するものについては、高校倫理のレベルで理解するのみである。
 批評(critique )という言葉からは、サント=ブーヴを連想する。文学の用語として「批判」的なものを日本語で表現するとしたら、こちらのほうが相応しいのかも知れない。「彼は学問的作業と詩人的印象とを巧みに妥協させることによって、読者を引きつけ、そのものだけで鑑賞にたえる批評という文学の一ジャンルを確立させた」(渡辺一夫・鈴木力衛「増補 フランス文学案内」岩波文庫 1990 )
 もはや、サント=ブーヴ的な手法には郷愁の感さえ漂うが、その対象とする文学者個人を実証的に研究するという姿勢は、学問の方法として手堅いものであるように思う。ただ、それが最新の手法でないことは確かで、現代文学理論については一般向けの概説書も存在するくらいだから、想定読者に、新しい文学理論を理解する程度の準備はあるものとして、文章を書くことも、現代の批評家には可能ではなかろうか。
 あらためて、カントの高校倫理的な理解から「批判」を考えてみよう。彼の偉大さは「人格尊重の精神」「批判精神」にあると、受験対策的に理解している。カントはジャン=ジャック・ルソーの同時代人で、ニュートン、ヒューム、ライプニッツといった、初期の近代思想家の後に仕事を開始している。経験論と合理論が既にカントの眼前にはあったわけで、両者を総合しようとする方向性が、彼の「批判」には現れている。
 人間の尊厳の根拠は、みずから普遍的な道徳法則を立法しようとする自律性にある。カント自身が、それを実践してみせたとも思える「批判」は、本来、きわめてストイックな行為ではなかったか。哲学者自身が、個人として独断的見解に陥ること、旧来の伝統や権威とされるものを無批判に受容し、また他者へも教化してしまうことを避けるために、まず反省的に考察することが「批判」の第一歩であろう。その精神は、フランクフルト学派のホルクハイマー、アドルノなどにも継承されているように思う。
 人文・社会科学的な領域における研究について考える場合、マックス・ヴェーバーによる「価値自由(wertfreiheit )」の概念は忘れがたい。私たちが現代日本で生きるうえにおいて、いささか処世術的に身に付けてしまった常識的な価値判断は、学問の世界に入る直前に、いちど手放さなければならない。人文学的な事象について、価値判断を離れて考察することができなければ、総合的、普遍的な結論を得ることは難しく、その表現としての評論文も、読者にとっては受け入れがたいものとなる危険性がある。
 自らを価値判断の主体として自覚することは、日常的な自分から自由になる契機でもある。カントの「人格尊重の精神」は、理性による感性からの自由をもつ人間を称揚するものであり、フランクフルト学派の「批判理論」は、近代理性において失われかけた自由な批判精神を取り戻そうとするものである。「批判」は、ドグマティズムに捉えられがちな人間の思考を、自由へと解放する試みであるように思う。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中