台風のあとに

見付天神の大楠が、三本とも姿を消した。

 中泉で府八幡宮の祭典があり、その日はバスの通路が変更になった。午前中の、ある時刻をさかいに、迂回路へ切り替わるようだ。
 脚の痛みを執拗に訴える老父は、見付の自宅から中泉の病院まで、バスで通院している。自動車を運転してきたひとだが、夏の前に物損事故を起して、自動車に乗ることを控えるようになった。まだ、自動車運転免許証は所持しているし、任意の自動車保険にも加入している。物損事故を起こして、板金が凹んだままの軽自動車も車庫に置いてある。
 老母は、むかしから電車とバスで移動してきたひとで、遠州鉄道のカードを買い、遠鉄バスの乗り方を老父に教え込んだ。何ヶ月かは、つねにふたりで出歩くような状況であったが、最近は老父も自分で動くことを覚えた。
 もともと住み慣れた町であるし、建設業という仕事の関係で、顧客の住所地をさがすために、町中を自動車で走り回っていたひとである。地名や風景がわかっていれば、バスの路線を乗り間違えることもなかろう。わからないときは、運転手に訊け、と言ってある。
 以前から私は、自動車を運転できない老母の「アシ」となって所用を手伝ってきたが、今年の夏からは、老父の「アシ」の役割も果たすことになっている。町のいたるところにバスの路線が通じているわけではないからである。タクシーを乗り回すほどの経済的余裕もない。むろん、私の都合で間に合わないときは、タクシーのお世話になることもある。
 病院から電話で私に連絡がきた。私は、自動車で老父をむかえに行った。老父は、病院の道を隔てた向かい側にあるコンビニエンス・ストアで私を待つという。車線を考えてのことだろう。帰り道に、どこかへ寄るのである。
 私が老父のもとへ到達すると、老父は新しい行き先を説明し始めた。それは、ある建材屋で、目的は「のり」を買うことだという。「のり」とは、雨樋用の接着剤のことだ。自宅の雨樋を修理するつもりなのである。
 今年の台風は遠州に上陸して、多くの構築物や家屋を傷つけていった。倒れてしまった樹木も多い。見付天神の大楠が、三本とも姿を消した。
 自宅では雨樋に被害を受けた。当初は、そのことに気がついてもいなかったほどの軽傷である。先週の休日に、外れた雨樋のパーツが、自宅の敷地内に静かに置かれていた。隣家の庭に落ちたものらしい。私は、そのとき、その場で、まだ庭にいた隣家の夫人に謝罪と礼を述べた。夫人は言葉少なに笑顔を浮かべた。
 外れた雨樋は、直さなければならない。老父は大工あがりの建築士なので、たいていのことは自分でもできるが、外注に出すという知恵も持っている。外れた雨樋は、知己の工事屋に依頼するということになったが、一週間もたつと、そんなことも忘れてしまったのか、あるいは自分でも直せるという目途がついたのだろうか、雨樋を直す材料を自分で買いに行こうと考えたわけである。
 しかし老父には「アシ」がない。そこで私を、その建材屋へ行くための手段として利用することに決めたのである。私は、老父の指示する通りに、目的の建材屋まで自動車を走らせた。建材屋の駐車場に自動車を入れると、老父は勝手を知るように店内に入って行き、むかしからの知り合いである店の主人に大きく声をかけた。私は、自動車のなかで待機した。
 やがて老父は、長さ30センチほどの白く長い箱を手に店を出てきた。雨樋用の接着剤である。いくらしたかは知らぬが、その代金は、老父が店主に会うためのもののように思えた。元来が事業者用の店で、家庭用に一回のみ使用するような資材を購入することが不経済であることは、私にも充分に考えられたからである。
 二台の脚立に足場を組んで、ふたりで雨樋を直した。私は、老父が落ちたら受けとめるつもりで最初は下にいたが、人手が必要になって、結局は上にも登った。さいわい、老父が姿勢を崩すこともなく、無事に作業は終了した。

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