日本語を学ぶ 其之九

ensyu nada

 社会人になると、有権者としての責任を果たす必要がある。
 ウェブで情報を集めたり、テレビでニュースを観たり、新聞を読んだりするのは、そのためだ。自分が事実を知るためだけでなく、テレビや新聞などのメディアにおいて、それがどのように報道されているか、を知る必要もある。有権者の全体集合を構成するのは、自分と、自分の属する同時代のひとたちである。同時代のひとたちとは対話の可能性がある。対話の可能性があるとするなら、その前提として、事実の認識を共有しておく必要がある。
 メディアでは、現代の科学技術や政治経済についての諸事実が言語化されている。特に日本についていうなら「日本語化」されている。高等教育の目的のひとつは、これら諸分野に関する日本語による情報を、受信する能力を育てることにある、と考えている。メディアによる情報を受信して、有権者としての責任を果たす、社会人としての生活に入るまでに、私たちは既に高校や大学で、政治的な問題を理解できる程度の教養は準備しているはずである。
 政治的な意見表明や議論、判断、投票などをする前に、これらの教養について確認するべきである。どの専門家も絶対的な権威を持つわけではない。政治的な問題は、総合的なものであり、自然科学的にも人文・社会科学的にも、幅広く共有された学識をもとにして、論じられるべきものである。それらの学識を共有できていないと感じるのであれば、勉強すれば良い。すべての勉強をすませていると思うのは、ありがちな幻想ではなかろうか。
 もはや、党派的な対立構造を原理として、政治的な問題を解決する時代ではないと、私は考えている。現代の、日本の政治をめぐる状況として、無党派層の多いことは、その実証的な事象であると思う。あらかじめ党派的な束縛をのがれることによって、真実に近づこうとしているひとたちが、いわゆる無党派と呼ばれるひとたちのように思う。
 同時代の論敵を相手に政治的な闘争をしているだけでは、将来の世代の経済的利益は擁護されない。環境の問題にしても、財政の問題にしても、将来の世代の負担を考えて意見を述べあうのでなければ、言論の自由を享受する意味がない。自分や、自分の属する集団、同時代における政治的な論敵をも含むであろう自分たちの世代のみの経済的利益を主張することが、政治的な対話をする目的ではないように感じる。
 現実の生活においては、私たちは自己の安全を確保し、経済的利益をもとめざるを得ない。ミクロの場面では、法的な闘争をすることも考えられる。しかし、その現実に居直って、自己の利益追求のためにのみ、言論の自由を利用しているのであるなら、そこに創造的な価値は生まれない。他者のことを考えずに発せられた意見は、説得力を持たず、魅力に乏しい。将来の世代に対する配慮のない意見、国際的な感覚を欠いた意見、他者に対する気遣いのない意見では、賛意を得ることに自ずから限界を生ずるのではなかろうか。
 多様な個人は、必然的に異なる視点を持つから、それらを網羅的に披露しあって、最適な解を探し出すことが、言論の自由や民主的な選挙の目的だと考えている。総合的な教養を身につけておくことは、政治的な問題を理解するための前提となるが、自分とは異なる他者の意見を受けとめる人間性もまた、政治的な対話をする際に準備しておくべきものだ、という気がする。

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