日本語を学ぶ 其之二

ensyu nada


 私が、なぜフランス語を勉強したのかと言えば、それは大学を卒業するためであった。第二外国語は必修科目であり、これをクリアしないことには、大学を卒業できないのである。大学を卒業しなければ、就職などない。
 英語にも同じことが言えるかも知れない。どんな専攻であれ、英語ができずに入学できる大学など、ないのではなかろうか。私の在籍した高校は、大学に進学することが当り前のような学校で、英語を勉強しなければ自分に未来はないと思わせるのに充分な環境であった。良師益友にも恵まれたように思う。
 では、日本語はどうであろうか。現代文については、普通に読書を楽しむことで、受験対策にもなりそうだ。しかし、古文と漢文には特別な勉強が必要であろう。古文と漢文は、21世紀の現在になっても、センター試験の必修科目から外される気配はない。やはり勉強しないことには、大学には進学できないのである。
 私は既に社会人であるから、もう大学入試のことなど真剣に考えなくてもいいようなものだが、かえって社会人であるからこそ、現代の生活とは掛け離れたような古文と漢文の学習を、限られた短い時間しかない高校生たちに強いることが気になっている。
 現在、日本人が高校や大学で学ぶ、自然科学や人文・社会科学の根源は、西欧にあると言って過言ではなかろう。数学や物理であれば、デカルトやニュートン。倫理や政治経済であれば、ホッブズ、ロック、ルソーといった名前が直ぐにあがる。原書は、英語やフランス語で書かれたものである。
 日本語に翻訳されたものではあるが、日本で高等教育を受けた人間は、必然的に西欧を起源とする思考の道具を使っている。大学を卒業した後も、なにを考えるのであれ、そのことを自覚したほうが、より自分の考えていることが明晰になる。無論、他者の考え方を理解するためにも、この前提は有効である。すなわち、コミュニケーションの基盤として西欧の思想は機能しており、この構造は、英語圏や仏語圏であれば、すでに共有されているものでもある。言葉の細かいニュアンスさえ克服できれば、かなり多くの発信源から情報を受信することができるように思う。
 私見だが、高等教育は、大学の教養科目あたりに、ひとつの到達点がある。高校で大学入試のためにする勉強に、不完全な感じが否めないのは、そのせいだ。進学校が、その生徒を大学に入れるのを当然としていることも、そのためだと思う。
 これは、実際に勉強をしてみると実感できる。自分が専門とする学問的領域以外の学問についてでも、このあたりまでの知識があれば、専門家は質問の拙さを許してくれるのではないか。そのような可能性のあること自体が、社会人になっても、教養科目の勉強を継続してゆくことへの、私の動機になっている。
 さて。大学を卒業した者も、いずれは現実の日本社会に戻らなければならない。それまでの、夢の中で彷徨っていたような、近代西欧を起源とする知的世界から、現実の、渾沌たるアジア世界の一部である日本社会の中に、否応なく組み込まれてゆくことになる。
 ときに懐かしく、理想的な民主主義の近代市民社会を思いながらも、血統主義の根強い旧弊な日本社会で生きてゆかなければならない。日本の法律は日本語で書かれている。そこで生き抜いてゆくためには、日本語を改めて学び直す必要がある。

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