淡海國玉神社(遠江國総社)

oumi kunitama jinjya

 一月一日の「中の宮」は静かであった。初詣をする人が、まったくいないわけではなかったが、私が参拝を済ませた後は、まるで写真撮影のために時間を空けてくれたかのように、一時、誰もいなくなった。
 見付の人々は、淡海國玉神社のことを「中の宮」と呼ぶ。この神社は、見付宿の、ほぼ中央に所在する。矢奈比賣神社(見付天神)からは、坂道を下り、東海道を歩いて、参道へと曲がる。こちらの参道は平らで、距離も短い。見付天神裸祭では、御神霊が、このふたつの神社の間を行き来する。
 参道の途中には、国指定文化財の旧見付学校がある。現存する、日本最古の、木造で洋風を擬した小学校の校舎であるという。白い壁が、冬の澄んだ青空に映えて、美しい。
 神社の境内の、東側には簡単な遊具があり、西側には広い「原っぱ」が広がっている。ここは、見付の子供たちの、古くからの遊び場である。見付の町の「二番町」にある公立の小学校から「馬場町」にある中の宮までは、歩いて近い距離である。見付の町は、更に細かい町に分かれており、それは祭りのときの集団になる。
 基督教系の私立幼稚園を卒園した私は、その公立小学校に通うことになった。私は、この小学校に通うことで、見付の町の本当の住人になれたと思う。それは、元来よそ者であった、私の両親についても、言えるかも知れない。
 見付の子供たちは、この小学校に通う六年間のうちに、何回かのクラス替えをすることによって、町中に知り合いを増やす。この町は、東海道に沿って、東西に長く広がり、多くの小路を通じて、南北にも広がっている。全体として、磐田原台地に囲まれた谷のような土地である。谷の底には川がある。見付の人々が「中川」と呼ぶ、今之浦川が、短い橋の下を流れている。
 見付の子供たちは、揃って同じ中学校に進学するから、都合九年間で、同世代の大概の者を知ることになる。直接に話すことはなくても、顔を見たり、噂話に聞いたりということは多くあるから、名前を出せば「ああ、あいつだら」ということになる。
 人生で、いつの時代が楽しかったかと言えば、それは小学校の時代であった。なにしろ勉強をした覚えがない。もちろん、学校を休むような児童ではなかったから、授業だけは聞いていたが、放課後や休日になれば、遊んでばかりいた。
 外で遊ぶことの方が多かった。友達が多く集まれば球技をした。ひとりになれば虫取りをした。集団を結成して冒険に出かけ、雑木林や草原を走破し、腕や脚に切り傷を負って、家に帰った。
 中の宮は「缶蹴り」をする場所であった。神社の北は森であり、その植生は、西側にある原っぱの向こう側にまで続いている。南は旧見付学校で、原っぱの中央に空き缶を置くと、身を隠す場所がふんだんにあった。私は足が速かったので、よく缶を蹴り飛ばした。
 缶を蹴るのは、痛快ではあったが、蹴られた鬼が可哀想にもなった。あまりに同じ鬼が続くようだと、その缶蹴りは仕舞いになった。
 景色は変わらないが、身体が大きくなった私には、もう隠してくれる場所がない。

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淡海國玉神社(遠江國総社)」への2件のフィードバック

  1. たまねさんの思い出深い神社なんですね。

    読んでいると、中村雅俊の青春ドラマが思い出されます。

    白い写真館っていう曲だったかな・・・

    青春時代の1ページにこんな場面でもあったかのように・・・

    かってに美化してますが・・・すいません!

    • yukioさん。ありがとうございます。美化していただけるとは、光栄です。泥だらけで遊んでいただけの子供時代でした。コメントいただいて嬉しいです。

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